死線を超えて84歳…最後の同窓会への案内が届いたが | よかもん人生のブログ

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長い人生の旅路を書き綴ったブログです

長い人生、人夫々・死線の種類も人それぞれ・・・。

 

出席したいが、生まれ故郷の甘木(朝倉)は新潟から遠すぎる。

 

経験して来た筆者の死線の数々を列挙してみる。

 

1,終戦の前日、大刀洗飛行場近接の甘木に、明日甘木を爆撃と、

  米軍がビラを撒き、そのビラを4歳の筆者も拾い、

  父に見せた直後行動開始 ̄ ̄町中大騒ぎで

  我が家も町外の親戚の家に一旦は避難したが、人が多すぎると

  断られた由・・・父は憤慨し死ぬ覚悟で街中の我が家へ戻り

  家族全員で玄関下の狭い防空壕に避難。

  最後の晩餐だと家族揃って多分粗末な食事で一夜が明けた。

  翌朝、父が玉音放送を聞き、戦争は終わったと驚喜、全員同調。

  その夜は提灯行列が行われた模様。

 

  甘木一番の歓楽街だった町内の一角に「米軍のMPが駐屯

 

  MPの虫歯を父が治療した事でMPにも可愛がられた

 

2,金持ちだった町内は、終戦を祝い、博多の海水浴場バス旅行。

  海の怖さを知らなかった4歳の筆者は波に攫われたが、

  海水浴を監視していた町内の大人に救われた

 

3,甘木川で水遊びの時、堰の下流の渦に巻き込まれ、

  水を飲み、諦めたら、浅瀬に流れ着き助かった

 

4,菩提寺(安長寺)の庭で遊んでいた時、激しい雷雨で、

  庭の観音堂に逃げ込んだ直後…観音堂脇の、銀杏の木に落雷。

  銀杏の木は真っ二つに裂け、その後、切り倒された由だが、

  筆者は無傷で助かった

 

5 3男5女の兄弟姉妹で生まれ、直ぐ上の姉と一番仲良しだったが、

  同じものを頂いた果物で姉は赤痢に掛かり、小学入学直前で死去。

  筆者は助かり今に至る。

  五百枝(いほえ)と言うな名前だったが悲しい思い出だ

 

6、花柳界の町内に学生は入ることを禁じられていて、町内の入り口に

  先生たちが立っていた。

  限られた数の子供しか居なく、小さなガキ大将の筆者は寂しかった。 

 

 

 丸山公園の巨大な「中禮の塔」前の広場は息抜きの場だった。

 この右手に有る松林には、父と鶯取りによく来た場所だ。

 

 高校時代、二度も突然気胸に襲われ、友達の自転車を借り帰宅。

 3年生の1学期末、結核に罹患し3カ月休学・・・・・・・。

 友達は潮が引くように全員去り、孤独に胸が締め付けられた。

 パス+ヒドラジット+カナマイシン投与で全快できた

 

7,幼児時代から線描体質と言われ、20代半ばの命と言われたが、

  18歳半ばで重傷の扁桃腺手術を行い体質がガラリと変わった

 

8,最大の病気はレベル4+転移していたレベル1の胃癌の同時切除。

  7時間半の時間を要し、手術は成功、早期退院までは良かったが、

  抗がん剤治療開始後3週間で、肝臓が腫れあがり横隔膜を押し上げ

  シャックリが24時間止まらなくなり、緊急入院~~~

  抗がん剤不適合と診断が下り、もう駄目だと病院は思ったのか❕❓

  生もの以外、好きな食べ物を食べて良いと言われ、高菜漬けや、

  イワシの丸干しなどなど、食べ始めたら手術で10㎏手術後3週間で

  10㎏減量していた体重が見る見る10㎏回復・・63㎏に復帰。

  無事退院できたが、病院は癌患者の退院会に入れてくれない差別。

  特異体質の為と諦めている

 

9,最大の怪我は雪下ろしの為高床式の我が家の梯子の真上から

  地上までの8mを転落…救急搬送されたが、両膝骨折だけで

  両腰から下をギブスで固定され,おしめを当てられ幼児体験。

  奇跡的に膝関節細胞の復帰が超早いと診断され超早期退院。

  東京住まいの、2番目の孫娘の誕生に間に合った

 

10,冬道走行は自然に慣れたが、ホワイトアウト運転は運しだいだ。

   一番危険だったのは、赤信号で停止しているのに真後ろの定期便       の大型車が止まる気配無く突っ込んできたので左にハンドルを切り急発信・・・九死に一生を得た

 

書けばまだまだ沢山あるが、今日はここまで・・・

 

蛇足として👇

 

昨夜、夕食後心臓がドキドキし始めた。

横に成ったが治らず、処方されている心臓の薬1錠を舌の裏に入れて貰い事なきを得た…自分一人で出来ない事が増えている事を考えよと

最後の同窓会行は反対だと宣言された。