大 東亜戦争の最中に生まれ、子供の遊びは戦争ごっこだった。
戦後の混乱期も「暴れは泣くまで喧嘩は死ぬまで」が合言葉だった。
ディズニーランドなどの人口の遊び場は皆無で、
自然の山川・・遊び場で、ターザンごっこなど遊びは広がった。
子供の世界も餓鬼大将が支配し、体力と度胸が幅を利かせた。
ひ弱で線病体質の筆者が、生き抜くには勇気と残酷さを誇示。
ジョロウグモでも鬼グモでも蛇でもイモリでも素手掴みして見せた。
大きなカマキリは掴み処が無いが、唯一首の後ろが弱点で掴んだ。
30cm位の長さの蛇なら、マムシで無い限り素手で掴んでポケットに入れ持ち帰り得意げに人に見せた。
ある時奇麗な色と模様の蛇を手掴みし、父に見せたら、それは毒蛇だ
嚙まれなかったかと大声少し噛まれたが大事無かった。
後に知ったのだが、毒蛇ヤマカガシは奥牙に猛毒があると知った。
トカゲやヤモリでも平気の平左で、遊び仲間に一目置かれた。
蜂には何度も刺されたが、アナフラキシー症候群には一度も成らず。
川遊びでヒルに血を吸われ泣き出す子が居れば、すぐに駆け付け、
ヒルとともに足を叩くとヒルが離れるので、そのヒルを手掴みし、
土手の草を引き抜き、ヒルの尻から差し込み天罰じゃと干からびさせた。
土手に生えてる@チドメグサで血止めしてやった。
危険な遊びも随分した。
数キロ離れていた大刀洗飛行場跡地に、気銃弾を拾いに行き、
焚火の中に鉄パイプを差し込みその中に不発弾を落とし込むと、
中で破裂し上方に弾が出た。
友人一人が不発弾をズボンのポケットに入れたまま登校し、
そのまま破裂し片足を失い、それ以降、不発拾いは禁止された。
おもちゃ屋で買えた花火のかんしゃく球をゴム銃の弾として撃ち合った。
戦後・裕次郎の映画で有名になった「ジャックナイフ」を地回りのヤクザは
ほぼ全員が持っていて、本物を見せて貰ったが、危険すぎる武器として
すぐに販売も所持も禁止された。
遊び仲間全員が「肥後の守り」と言う小型ナイフを持ち歩いていた。
鉛筆削りに迄、飛び出し式の物が有ったが、禁止された。
ネズミ捕りは得意中の得意で、町当局が捕獲に賞金を出した事で、
小遣い稼ぎが出来た・・・
後に、「宇田川竜男」のネズミを何度も読んだ。
ネズミ捕獲は現役時代、職場に生かされた。