安倍晋三元総理亡き後、安倍派の7人の侍の動向は❕❔ | よかもん人生のブログ

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我こそが安倍晋三元総理の後継者だと自負しているようだが、

 

ドングリの背比べで本命は不在のようだ。

 

安倍派の醜悪な跡目争い 安倍家の代理人を気取る西村康稔氏、森喜朗元総理も登場 デイリー新潮

 

参院選から一夜明けた7月11日、安倍氏の通夜が東京・港区の増上寺で営まれた。

 国会議員ら列席者約2500人。焼香を終えた参列者が歩を進めるその先に、親族らとともに神妙に頭を下げる喪服姿の男が。

【写真9枚】安倍派を率いることになった七人

 安倍派(清和会)事務総長、西村康稔氏(59・前経済再生担当相)である。

 自民党のベテラン議員が言う。

 「ほかの清和会議員は昭恵夫人や弟の岸信夫氏(防衛相)ら親族の後ろに並んでたけど、西村氏は親族然としたたたずまいで出口の近くに立っていた。

 自身を印象付けようとしたんだろう」  通夜に先立ち、西村氏は以後の派閥としての対応を事務総長たる自身に一本化させようと企てていた。  清和会会長代理をつとめる塩谷立氏(72)と下村博文氏(68・前政調会長)に加え、清和会の参院会長である世耕弘成氏(59・参院幹事長)の三人を11日昼、紀尾井町の派閥事務所に集めたのだ。

 

  政治部デスクが解説する。 「この西村氏の動きを察知して駆けつけたのが、清和会最高顧問の衛藤征士郎氏(81)でした。居合わせた出席者の一人が“通夜や葬儀の段取りの確認で……”と言うのも聞かず、西村氏に向かって“何も決めるな”とクギを刺したのです。

 結果、当面は一致結束していくことを確認しただけで終わりました」

「一体どういう了見なのか」

が、この“衛藤裁定”は建て前に過ぎない。

 安倍氏を斃(たお)した銃撃が、派の跡目争いの号砲となったことは否定しようがなかった。

  「西村氏の素早い動きが象徴的です。事件当時、奈良から近い自らの地元・兵庫県にいたことを奇貨として、事件のあった8日のうちに安倍氏の搬送先の病院に駆けつけた。

 翌9日には安倍氏の遺体を乗せた霊柩車を、秘書が運転する車で追走して帰京。そのまま安倍氏の私邸に上がり込み、かいがいしく立ち回った。

 訪れた弔問客にも、昭恵さんや岸さんのすぐ傍で一緒に対応していたそうです」  陰に陽に張り切る西村氏。

 その異様さは、9日に派の所属議員に配布された連絡文書にも表れている。 〈ご連絡〉と題する文書には、次のようにある。

対して追悼演説を依頼された甘利昭議員が微妙な立ち位置に困惑。
 

演説先送りか 甘利氏に党内も反発

毎日新聞

「残した派閥をばかに」 安倍派の猛反発で甘利氏の追悼演説頓挫

毎日新聞2568

 自民党が8月の臨時国会で実施する予定だった安倍晋三元首相の追悼演説を先送りする検討に入ったのは、甘利明前幹事長(麻生派)が演説を行うことに対して与野党の反発が強まったためだ。

 特に銃撃事件で会長の安倍氏を失った自民党安倍派(清和会、97人)で批判が強まったことが大きな要因となった。

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追悼演説は野党党首が代表して行ってきたのが通例だったとか。

 

しかし今回の安倍元総理は憲政史上最長となった偉大な総理で、

 

凶弾に倒れたと言う、特別な大総理である。

特例が有っても聊かも可笑しく無いと思う。