あの日あの時、筆者はこの世に生まれて20日目の真日本男児だった。
それから3年有余、8月15日、甘木の街は爆撃される予定日だっと。
前日米軍がビラをまき、一般人は郊外に逃げよと書いてあったそうだ。
8月14日、家族で街の郊外にあった親戚の家まで避難しようと、
取る物も取り合えず家族全員10人+叔母1人共に徒歩で逃げたが、
大勢の人と一緒で自分は事情が呑み込めずルンルン気分だった。
親戚の家は人で溢れ、避難を断られたようで、父母は憤慨し家に戻り、
家に手掘りしていた、小さな防空壕へ家族で一夜を過ごす事と成った。
父は家中の食べ物を防空壕へ運び込み、
今夜が最後の晩餐と成るかもと話したようだ・・・ほぼ覚えていない。
防空壕では家族全員が異常な緊張状態、緊張をほぐす為、歌を歌った。
我が家に伝わる歌がある。
讃美歌の中にある文言だと聞いているが正確には覚えていない。
帰郷。
1、昔の我が宿、変わらぬ故郷、夢の他に今日ぞ会える。
ヒグラシ秋呼ぶ榎の木陰に、親の笑顔を観んが為に。
2,雲間に重なる、昔の我が宿、夢の他に今日ぞ会える。
富貴を望まず名誉を願わず、神の恵みの長く遠く。
3,樹の間に眺める昔の我が宿、夢の他に今日ぞ会える。
樹の間に聞こえるせせらぎの音、親の笑顔が今そこに(3番は不正確)
そして父が言った言葉は、大人に成り他郷へ旅立ち、帰郷するとき、
この歌詞を思い出せだった。
新潟から里帰りする汽車の中で子供たちに聞かせた記憶がある。
そして各人が好きな歌を歌いあい、食事を食べながら一夜を過ごした。
筆者が歌ったのは、お寺で習った釈迦尊が覚醒された誕生の歌だった。
1、雪白きヒマラヤ、水清き~ガンジス、
かの聖地生まれし、その名高し釈迦尊。
2、菩提樹下の悩みも、今、晴れて爽やか・・・
比丘尼の捧げた乳粥をすする。
一夜明けて8月9日、父は玉音放送を聞き、戦争は終わったと叫んだ。
その声が終わるか終わらないうちに、町中は歓喜に包まれ大騒ぎ。
その後の暮らしは希望と悲惨の両極端を味わった。
続きは機会が有れば・・・・・・・。