昭和20年の8月14日、明日は死ぬと、3歳8か月で体験した記憶 | よかもん人生のブログ

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昭和20年8月14日、甘木町(現・朝倉市)上空で米軍がビラを撒いた。

拾って来いと言われ何も知らずに自分もビラを拾って持ち帰った。

明日15日甘木を爆撃するから住民は逃げよとの警告だったそうだ。

我が家には多分、ちゃちな?防空壕が2か所あった。

両親と子供8人の大家族、1ヵ所では収まり切れず、

小さな裏庭と玄関横の2か所に分散して避難させる為だったそうだ。

直撃弾を受けても、一方が助かれば良いとの父の判断のようだ。

しかし14日の昼間、甘木町では避難の為の大移動が始まったとか。

我が家も遅れてならぬと、郊外の親戚の家に避難を開始したが、

郊外の親戚の家に数十人が集まっていて、これ以上ダメと拒否。

小さな子供だけでもと懇談したそうだが拒否され、

憤慨した父は踵を返し我家へ戻り、最後の晩餐を親子で済ませた。

逃げ易いからと玄関脇の防空壕へ全員避難し歌って過ごした。

鮮烈な記憶だから、うろ覚えながら記憶の奥に残されている。

15日の朝、父が茶の間でラジオ(玉音放送)を聞いていた時、

全員集まれとの号令・・・戦争が終わったぞと、大声で言った。

それから町中で大歓声が上がり、夜は提灯行列だったそうだ。

同じ年代の子供も、訳も分からず喜びあった。

戦後の耐乏生活や繁華街の変わりようは幼児の目から観ても

異常な光景だった、鬼畜米英と言われた敵が米兵が、

街を闊歩し、派手な化粧の女達が雨後の筍のように増えた。

警察は無力~~~

地回りと朝鮮進駐軍気取りの対立が其処此処で発生したそうだ。

親達は生きるのに必死、子供は歳上の子供に任せられ自由を満喫。

遊びと、魚や貝や蟹など、食料品調達が、遊びの一環だった。

長くなるので今日はここまで。