小さな田舎町で生まれ育ったが、町内に米軍の駐屯地があった。
駐屯地は元々、管区と呼ばれていて、昆虫採集の聖地だった。
町内は花柳街で、町角に先生が立ち、中高生は通行できなかった。
花柳街ゆえにハッピを羽織ったやくざが肩を怒らせて闊歩していた。
闊歩するヤクザとは顔見知りで、因縁を付けられた事は一度もない。
飲めなかった事も幸いしたのだろう。(祭りでは子供も飲まされた)
同級生に手紙を出し押しかけ同窓会の話から、思い出語りとなった。
そんな事情から、家に遊びに来る町外の友人はほとんど居なかった。
町内生まれの友人とは親密な関係だった。
子沢山の時代、町内に一人息子が3人居たが、既に2人は他界した。
筋向かいのバーで起きたヤクザ同士の殺人事件は鮮烈に覚えている。
戦後昭和史で「もはや戦後ではない」と言われた時代・・
警察力も未だ弱体だった・・・殺人事件勃発で、全国から
道路を埋め尽くすほどのヤクザが集まり県警が応援に来た。
バーの経営者で同級生だった友人の兄が流れ弾で死亡した。
その後、仲の良かった友人も流れ弾で死んだと風の便りで知った。
事件が収まるまで表玄関からの出入り禁止、裏から出入りした。
前からは芸者の三味の音、横からは、客のだみ声と矯正と酒の匂い。
多感な時代、言い訳だが勉強になど身が入る筈もない。
狭い町内に1軒、隣接した町内に映画館が2軒もあった。
当時の流行歌や軍歌は耳学問で覚えた。
「にごりえ」「たけくらべ」「次郎物語」など、
世俗の世界は日常として、飲み屋の生活を見て体験した。
不思議に、町内の竹馬の友でグレタ友人は知らないが、
同級生が博多の繁華街で鉄砲玉となり死んだと聞いた事がある。
男女関係には奥手で、まるで「博多っ子純情」以上だった。
中高時代を通して、親しくなった異性は居なかった…残念。
60年前の記憶、クラスメートの顔と名前が一致しない。
憧れた女性は居たが、奥手では言い出せず、そのまま胸に収めた。
帰省して、竹馬の友に会えるか会えぬかは五分と五分・・・
菩提寺で年会費を払った後は、風任せです。