涼しさを求めて打ち水をし、
風鈴の涼やかな音を聞きながら書いている。
東京ではまもなく盆となるのだろう・・・田舎は一月遅れ・・・
父の遺稿を仏壇から出し読み返している。
額縁の中でしか知らない祖父母の事が事細かに書いて有る。

(四)父母の死と思想;の項目に詳しい記述が残されている。
その中から祖母の臨終の場面を抜書きする。
特筆される事は胃癌で意識はしっかりしている中、
朝7時頃から祖母の呼吸は次第に乱れた。
臨終を迎える朝、安長寺の前住職(洞雲和尚)が、
おつとめの間あげていた「お水」を持って来訪された。
このことは発病以来1ヶ月毎朝欠かした事の無い日課になっていた。
和尚がおよそ1年前、昭和八年に、前住職・実堂和尚の後任に、
安長寺に入山される時、甘木に来て最初に草鞋を脱がれたのが、
この家であり、ここで旅装束を脱ぎすて衣服をあらため習わし通り安長寺に入山された由で、従って母(祖母)とも特に親しく、
最初からの縁故もあり、心から平癒祈願してあった。
「お水」をささげた和尚は、母(祖母)の臨終に驚き、すぐその場で、
枕頭に座し母の吸気の激しい音に合わせるかの様に、
「般若心経」から「妙法蓮華経観世音菩薩普門ぼん第二十五」を
声、高々に読経され続けた。

15分か20分続いた頃、
母の呼気が一段と激しくなり最期の一呼吸した時、和尚の読経も終わった。
凡俗の私から見ても母には大変な仏縁があったと思う。
最後の瞬間までお経の声を聞くとは予期して出来る事ではない。
その後、和尚がしみじみと述懐された。
よほどご縁が深かったのです。
臨終にお経の声を聞かれるなんて普通では出来ない。
自分は今まで2回有り、実母と師匠の臨終の時でした。
臨終ですの医師の声に、瞬間父(祖父)は異様な叫びを上げて立ち上がった。
悲しみの余り狂乱したと思った私は背後から上体をがっりり抱きしめた
そして、ガックリと力が抜けた。
あれほど気の強かった父が男泣きに号泣した顔を見たのは後にも先にもこのとき唯一度である。・・・さもありなん。
この後も父母への思い出が綴られているが、機会が有れば書く。
この後郷里を去り、不本意ながら長男啓介の元で暮らす事になる。
その事が祖父に二つの戒名が付く事件へと発展し、
兄弟としての縁戚関係まで絶つ大事件となった・・・その内に。
何処の誰にもある、家族の歴史のひとコマでした。