ここにも良寛の足跡が | よかもん人生のブログ

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長い人生の旅路を書き綴ったブログです

少々喉が痛かったのだが、天気も良いしどこかへ連れてって・・

妻と犬たちの誘いに乗ったのが運のつき。

今は唾を飲むのも痛いです。

混雑を避けるため裏道を選んで日本海を目指しました。

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NHKドラマ天地人で今注目の与板町から山越えの道=塩之入峠・・

地元の人しか利用しないこの峠道は、

良寛とその父以南、さらに晩年の良寛を慕って通ってきた貞心尼の越えた道です。

今はトンネルが開通していて峠越えの厳しさは無いのですが、

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昔の厳しさは想像できます。

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この場所にある荒れ果てた記念碑を眺めて一路日本海へ。



島崎には「良寛の里」と呼ばれた道の駅が出来ていたのだがここも寂れてしまっている。

GWなのに誰一人いなくて栄華の夢は今何処と言う風情でした。


以前ブログで載せた落水の滝の脇道から日本海へ降り立った。

目指すは出雲崎の海岸沿いに立つ越後出雲崎天領の里・道の駅時代館

物凄い車で駐車場が無い・・・・・。
江戸時代、徳川幕府の直轄地(天領)であった出雲崎は佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地で、北国街道の宿場町として栄えました。廻船問屋街、旅館街が立ち並び、それに伴い遊廓も発展していきました。様々な業種が集まり近隣の農家の二男、三男は「天秤棒1本持って出雲崎へ行け」といわれるほど働き口に不自由ないところでした。
当時の人口はこの小高い丘と日本海に挟まれたわずかな平場に約2万人もいたと言われ、人口密度は越後一でした。よって、多くの人が居住できるように、また、当時は間口の広さに税金を掛けられていたことから二間や三間半といった間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、約4㎞にも及ぶ妻入りの街並を形成しました。

漸く外れに有るスペースを確保して、海風に当たってきた。

天領の里は何度かブログに書いているので案内は割愛するが、

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北海道から犬3匹同伴で家族ドライブに来たという人と話が出来た。

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その中の一匹、ジャックラッセルテリアは、

ご主人が海に抛る棒を追い海に飛び込み岸まで銜えてくる。

よほどお気に入りなのか何度も繰り返していた。

ボールを銜えたゴールデンレトリバーは私の傍へ寄ってきて銜えたボールを見せびらかしていた。

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穏やかな日本海は行楽客に優しかったですね。



この場所から海岸沿いにわずかに走った場所にある、獄門の跡

佐渡送りの罪人を何故かここで佐渡送りの前に斬首したと伝えられています。


処刑人の霊を慰めるためにお地蔵様が安置されており、供養塔は天明3年(1783)の建立と言われており、数体の地蔵尊と老榎が当時を偲ばせます。現在でも霊を慰めるため、毎年9月1日に尼瀬町内の人達によって、このお地蔵様の前で百万遍講を行っています。
残念ながら戊辰戦争時、代官の手の者によって江戸時代の処刑者の数や氏名、罪名を記した獄門帳やその他の書類を処分したため残ってないが、『遠い越佐の海』という書物には天明3年にあった柿崎の米騒動の首謀者がここで処刑されたと書かれています。
良寛さんは名主見習いの時、首切りの立会いが嫌で家出をしたと言われ、良寛さんの出家の動機の1つと考えられています。


山側で人知れず佇んでいるのですが、

物の怪に憑かれたくないからと妻から立ち寄りを拒否されました。

天明3年にあった柿崎の米騒動の首謀者もここで処刑され、

全て首を落とされた地蔵が鬼気迫る感で背筋を寒くします。

前に2~3度行った場所ですが、そのうち一人で取材しに行きますよ。

喉は痛いが平熱だし、「獄門の跡」からの憑依も無かったようです。

こんな重病?なのに妻と犬たちが散歩を促します。

重病否、10秒20秒30秒前と急かされています。