雨が落ちてこないうちにと、イヌとナニに連れられて港の見える丘公園サンポ。
旧英国総領事公邸の玄関前を抜け、
ヨコの近代文学館では、メインの展示とは別に 神奈川と作家達と題し 太宰治、三島由紀夫から現代まで・・・
ちょっと寄ってくか。
中は撮影禁止だったが、太宰の妻、美智子さんが知人にあてたハガキが展示してあって
「右大臣実朝を八ヶ月かかって書き上げ今はぼ~っとしてます。執筆中は実朝が乗り移ったようで・・・」
平家ハ、アカルイ。(中略)アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
同じような匂いを実朝に感じ、太宰も身を入れて書いたんだろ。
いろいろな花が咲き乱れる 丘公園をサンポ。
話しは変わるけど、昨晩 BSTBSで「沢田研二華麗なる世界」という2時間番組をやってたな。
同世代の彼のタイガース時代のデビュー曲 「僕のマリー」から 聞き覚えのある曲をずっと聴いていて、あのレコード大賞を獲ったのは1977年のことだったのか。
1977年といえば、オレが丁度30歳の時。
あのころS会と言う20人ばかりのゴルフ好きが集まった会があって、酒席をともにしたり マージャン・囲碁・ゴルフと オレも員数合わせみたいなもんで末席に名を連ねていた。
中に80歳に近かった吉田信さんという白髪の紳士が長老格でいて、毎日新聞の音楽記者をやってた人だと聞かされていたが「熱海ブルース」なんて曲も作って作曲家協会のメンバーでレコード大賞の審査員をやり、いよいよ委員長になったっていうんで、あの年の桜ヶ丘でやったコンペの何番ホールだったか、秋の穏やかな陽射しのフェアウエーの坂を並んで下りながら ”今年の大賞はダレが獲りそうなんですか?”と 聞いたんだな。
五木ひろし、森進一、都はるみと ずっと演歌勢が大賞に輝き あの年だって「津軽海峡冬景色」や「秋桜」「愛の終着駅」など流行ってた曲があったが
「今年はジュリーでしょ」とキッパリ言われて え~~~?
大体80近いジーさんの口から 沢田研二ではなくジュリーなんてカタカナが飛び出すとは思わず そっちのほうに驚いた記憶があるけど、半信半疑で見ていた大晦日のTVに トロフィーを掲げるジュリーのヨコに小さく白髪の吉田さんの姿を見つけて まさかデキレースじゃないよな~って・・・
しかし昨晩のTVじゃ ジュリーはその前年も そのまえの年もいいところまで行ってたとわかって 長年の疑惑が払拭されたし、確かに吉田信さんは清廉潔白なホントの紳士で、サイゴは相模原ゴルフクラブの理事長もやられ あそこでやったコンペの時など タイヘンにお世話になったが、今考えりゃやかましくバクチ好きの連中とよく一緒に遊んでくれたもんだ。
どこかを廻っていたイヌと再会し、
テッペンのつぼみが開くと梅雨が明けるという うさぎ♪さんの二番煎じのタチアオイの花をながめながら帰ってきて、明日 雨、降らねぇだろうな~。