昨晩のNHKBS アナザーストーリーズは 「あしたのジョー 時代と生きたヒーロー」
1967年に少年マガジンで連載が開始されるや人気に火がつき オレも京都の三条河原町にあった教会の英会話教室で 英語名をつけることになった時に 当然「ジョー」。
聖心女子大を出てアメリカ留学から帰ってきた先生に「不良みたいな名前ね」と言われたというのは前にも書いたけど。
世の中はちょうど学生運動のさなか、絶対に勝てないとわかっている闘争に身を投じている学生たちに対し、日大では 2年間働いたのちに入学し勉強したいのになぜさせないんだと 機動隊より前に立って学生達と対峙した運動部の学生がでてきたが 彼こそが極真空手の『第1回全日本選手権大会』を制した男で 力石徹のモデルその人だった。
みんな若く、そして右も左も明日を信じていた。
ジョーと力石は、いろんないきさつの末にリングであいまみえることになって力石が勝利。
しかし2階級も体重を落とすというムリが祟って力石は死ぬ。
この時も、漫画を描いてるほうの”ちばてつや”は 力石を生かしておきたかったが、原作者の梶原一騎が「ここで死ななきゃウソだ」と声高にバーでやりあい 「力石は、絶対殺す!」と言ったのをバーテンダーが本気にして警察に電話したと言うオチまで。
天上桟敷の寺山修二が呼びかけ、講談社の講堂で行われた力石の葬式には何百人という ファンが集まり、寺山は、「力石徹よ お前を殺したのは誰だ、誰なんだ」と弔辞を読み、その1週間後に起ったヨド号ハイジャック事件のグループは 「われわれは明日のジョーである」という声明文を残して羽田を飛び立った。
オレはその年、講談社の入社試験を受け2000人以上が応募した一次試験を通り、送られてきた新幹線の往復キップで 京都から本社の面接に出向いた。
居並ぶ面接官の一人に「なぜ講談社に応募したのか?」と聞かれ 当然「少年マガジン」を発行してるし あしたのジョーの大ファンだとアピールしたまでは良かったが 別の人に
「応募した写真の髪の毛は長いのに 今日はどうして短いの?」と言われてしどろもどろ、
面接のため、とはっきり言えばよかったものの、あれで落ちたと今でも思ってるが、後年「いちご白書をもう一度」の中で♪就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くないさと 君にいいわけしたね~ という歌を聴いて オレなんか決まる前に落ちたよ!
あのころのみんなが歳をとり あしたのジョーになったヤツなんかいるのか?
フォークシンガーの三上寛は もうずっとまえに「夢は夜ひらく」のメロディーに乗せて
♪ サルトル マルクス 並べても
明日の天気は わからねえ
ヤクザ映画の看板に
夢は夜ひらく
明日のジョーにもなれないで 夢は夜ひらく~ と歌っている。
オレもコロナで学校閉鎖のマゴの手を引いてドーナツ屋、すっかり歳をとったもんだ。
サア、オレの明日はゴルフじゃ!