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(つづき)牛奥ノ雁ヶ腹摺山という日本一長い名前の山中で、右も左もわからなくなり

笹藪の雪の斜面を転げ落ちながら オレなにやってんだと、半分滑稽で半分パニックでもがいてたシーンを思や

こんな時間にここにいられるなんて想像もできなかったと、天目山温泉の露天風呂に浸かりながらシミジミ、

はァ~~良かったァ。



ここは塩山か~、なんかあったな・・・とボンヤリのアタマにアッ!浮かんだのが大村主計さん。

確か、塩山のどこかのお寺に 主計さんが書いた「花かげ」の碑があるって言ってたな。



遭難中?は役立たずだったスマホでチェックすりゃ 向嶽寺、ここからそんなに遠くない。

こりゃ行かない手はないだろとおんぼろクルマの古いナビをセットし、

ぶどう狩の看板のかかった道を何度も横切ってそのお寺に着けば




門前の道に「花かげ通り」のプレートがかかっていて、もうそれだけで感激。

大村主計の名前は知らなくても、↓この歌を聞いたことのある人はたくさんいるはず。




お寺は想像以上に広く、しかし人の姿はどこにもなく 碑はどこだと探しながら一番奥にある方丈?で

「ごめんください」 

でてきた若い坊さんに尋ねれば、「南の方です」

「南ってどっち?」 ソレガワカッテリャ遭難ナンテシネぇ。

「富士山のほうです」 モウ雲ニ、カクレテル。

「クルマで来られたんでしょ?駐車場のそばです。」

向嶽寺というのは富士山(富嶽)に向かって建てられてるお寺というイミみたい。


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南の良い場所に碑はあった。

 ♪ 十五夜お月様 ひとりぼち
    桜吹雪の花かげに
    花嫁すがたのおねえさま
    俥(くるま)にゆられてゆきました

七人兄弟の末っ子だった大村さんの一番上の姉が、桜吹雪の下を 

人力車に揺られて隣村に嫁いで行った、切ない思い出。

その姉の花嫁姿を見送ったところが、このお寺の桜並木だったという。







オレが30歳になったかならなかった頃のことだから、もう40年も昔・・・

いろんなつながりの20人くらいが集まったゴルフの会があり、その長老格に

小金井カントリーで無断で名前を使った 吉田信さんと 大村主計さんの二人がいた。



信さんはのちにレコード大賞の審査委員長や相模原カントリーの理事長をした白髪の それは上品な紳士、

かたや主計さんは、やはり70歳を越えていたと思うがひょうきんで茶目っ気たっぷりの子供みたいな人だった。


それが、ゴルフのときはネクタイにウデをまくったワイシャツとベスト、ハンチングにニッカボッカという

まだ戦前か!というようなオールドファッション・ド・ゴルファー。



ショートホールのティーグランドの脇に砂が盛られてて「なにに使うのか」と聞けば

ヒョイッと砂を一掴みしてティー替わり。上にボールを置いてポーンと打ってご機嫌だった。




ある時、3時ごろ会社に電話がかかってきて 「三人いるからすぐ来い」

マージャンの誘いだったが、「ムリですよ、まだ勤務中ですよ。」と返事すれば

「部長に代われ!」 部長も大村さんじゃしょうがない 「業務命令だ、言って来い」と苦笑い。



新橋の会社から10分くらいの、銀座八丁目の掘りコタツのある雀荘に駆けつければ

「私の秘密」の藤浦洸さんと証券会社の営業マンがいてすぐにジャラジャラが始まったが

戦前?のアールシャールルールでやりにくかったな。




主計さんとは何度も麻雀卓を囲んだが、え~、この人があんなロマンチックな詩を書いた人か!

というような、ハチャメチャな麻雀だった。

チーポンを繰り返し、裸単騎(手持ち牌が一枚しかない状態)が大好き。



そのたった一枚の牌を両手で隠し、ウヒャウヒャ子供のようにワクワク顔、

そして、こんなのないだろうというような真ん中の牌でロン!

もう喜色満面、シワだらけの顔をくしゃくしゃにして喜んでた。



一周忌の席で頂いた桜色の表紙の「花かげ」という小冊子を故郷のお婆さんに送ったら

こういう人と知り合いかとびっくりしてたな。



あの頃の桜並木はもうなくなってるというが、地元の人達がよみがえれ「花かげの道」と

並木を復活させる運動をしているという。


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