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先だっての鎌倉詣での折、まったく偶然に思いがけず 実朝の墓にめぐり合い、

鎌倉幕府第三代征夷大将軍、和歌もよくし 武士としては初めて右大臣にまで任じられた人物にしては

なんとも粗末と言っては言い過ぎかもしれないが、

鎌倉で言うヤグラという横穴の中に、簡素な五輪の石積みの墓。



彼には子がなく、彼を襲った甥の公暁もすぐに追手に殺され、その後源氏の系統の子供達もみな抹殺されて

源氏の血統は三代で途絶えたということだから、そんなもんかと・・・



家に帰り本棚から、学生のころ古本屋で買った太宰の「右大臣実朝」を取り出してみたが もうボロボロ。

表紙にエンピツで20の数字、多分20円だったんだろう。

昭和18年発行の本の背は、あの時すでに陽に焼けて真っ黒、なにより表紙に印刷されてるはずの文字もない。

きっとカバーがはずれてどこかにいっちゃたんだろ、20円というのはあの頃にしても捨て値みたいなもんだった。



京都叡電の元田中駅近くにあった古本屋には、この手の本が本棚じゃなく番台の前に山積みされていて、

麻雀に勝った帰りに覗いては、めぼしいものを探してた。


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それにしても、ちょっと洒落た桜の花びら、

実朝と桜か、似合ってるなとひっくり返せば右下隅に 丸に嗣のサイン、もしやとページを繰れば

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装幀  藤田嗣治。へ~、初めて知った。

中身も昔に読んだきりで、全く覚えてなかったが今は便利な世の中、ネットで読める

実朝が17歳のときからの付き人の回想録という形をとって話は進み、久しぶりに読み返してみれば

ああ、そうだ、と想い出したくだりがあった。



平家ハ、アカルイ。(中略)アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。




昭和18年に書かれたこの本、その後自らも滅びに向かって一直線、日本も・・・ と

あとになればなんだって言えそうだが、このまえ亡くなった野坂昭如も国の行く末を案じていた。

作家のカンというのは案外当たる。






 さらに、そのとしの十二月二日、将軍家いよいよ右大臣に任ぜられ、二十日、右大臣政所始の御儀式を行はせられ、二十一日、将軍家右大臣御拝賀のためその翌年の正月二十七日鶴岳八幡宮に御参詣有るべきに依つて、またも仙洞御所より御下賜の御車、御装束など一切の御調度が鎌倉へ到著し、鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御式は、六月の左近大将拝賀の式よりも、はるかに数層倍大規模のものになる様子で、ただごとではない、と御ところの人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如く、将軍家の御運もここ一両年のうちに尽きるのであるまいかといふ悲しい予感にさへ襲はれ、思へば十年むかし、私が十二歳で御ところへ御奉公にあがつて、そのとき将軍家は御十七歳、あの頃しばしば御ところへ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戦などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、と御自身に問ひかけて居られた時の御様子が、ありありと私の眼前に蘇つてまゐりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もございました。       (右大臣実朝より抜粋)


ゴルフに行けない無聊を読書でナグサメている。


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← 出ていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな
  (わたしが立ち去って主人のいない家となっても
   軒端の梅よ 春を忘れず咲いておくれ)

吾妻鏡によれば 暗殺当日の朝、実朝は 上のような歌を遺していたそうだ。