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じいさん達と伊豆宇佐美温泉に囲碁の一泊旅行。
 
といっても竹さんはいなくなり、80歳と75歳のじいさんは直前にドタキャン。
 
結局72歳の大幹事長と69歳のボルボとオレの3人、ま、いっか。
 
三人で、亡くなった人たちのことでも思い出しながら
 
しんねりむっつり、秋の夜長を碁を打って過ごそう。
 
 
 
東海道線を熱海で乗り換え、宇佐美まで・・・
 
しかし、こういうところはジイサン同士で来るところじゃないな。
 
やっぱり、アレとアレでアレアレアレだな。
 
 
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”熱海の坂を下る時は処女だった。
 
 上がる時は違ってた。”
 
片岡義男の小説の中で、その若い女性は「熱海ブルース」を口ずさみ・・・
 
 
 
というようなハナシを昔、新橋の小料理屋で吉田 信さんに話したら
 
「そうですか」と喜んでくれた。
 
吉田 信さんは 「塙 六郎」というペンネームで「熱海ブルース」を作曲した人。
 
サイゴの頃は相模原の理事長をし、お供した帰りは必ず16号線に出る途中にあった雀荘でパイをつまんだ。
 
オレが30前後、吉田さんは80歳近かったと思う。
 
 
 
そもそも、この囲碁会はその当時のゴルフ会のなれの果て、
 
みんな歳とって亡くなったり、ゴルフから足を洗ったりしてゴルフ会は自然消滅、
 
その中の碁好きが集まって、名称はそのままに囲碁会を続けているが・・・
 
 
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あの人も、この人も死んだな~。
 
三人で指折り数えたら、とても10本のユビでは足りない。
 
 
 
「大塚さんも早くに死んだなぁ、52だったよ、52は男のアブナイ年頃だ」
 
大塚さんのポン友だったボルボが言った。
 
 
 
「そういえば、大塚隆三ってチャフラフスカとなにか関係あった?」
 
フト数日前の新聞記事を思い出してボルボに聞いた。
 
新聞記事 ↓  ↓  ↓
 
 
 
 
「大好きだったよ、オリンピックの時、会いに行くとか言ってたから・・・」
 
「エッ、それ本当?刀、贈ったとか聞いてない?」
 
 
 
「それは知らないけど、奴のことだからラブレターぐらい持ってったんじゃないか?」
 
新聞記事で読んだ時、同姓同名だとは思ったが、まさか・・・
 
 
 
オレが大塚さんと知り合ったのは、オリンピックから6,7年後。
 
ゴルフコンペや囲碁会では丁々発止、マージャンは一番遅くになって覚えたが
 
ヘボのくせに高いレートで挑んできた。
 
 
 
 
記事のハナシをボルボにすると
 
「そりゃ、あいつにマチガイないよ。そんなことするのは他にいない」
 
オリンピックのころは、27,8歳。壊れたトラック一台で運送屋を始め、
 
その頃はもう、そこそこハブリが良かったようだ。
 
 
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大塚さんは52の時、ボルボやローソク達とゴルフに行く約束をしてたが
 
スタート時間になっても現れない。
 
 
 
翌日になって、自宅の布団の中で死んでたと聞き
 
「そりゃ、来れないわけだ・・・」
 
奥さんが夕方、部屋をのぞいて見つけた。
 
 
 
「どうする?新聞社に連絡しても、本人は20年以上前に死んでる、
 
奥さんは音信不通、とても美談にゃならねェぞ」
 
 
 
「しかし、当時の隆ちゃんを知ってるのはオレ達しかいないしな。
 
結婚したのだって、ずっとあとだし・・・」
 
 
 
結局大幹事長が、チャフラフスカもココロの整理がつくだろうと
 
休み明けに連絡することにして、更けゆく伊豆の宿で碁三昧。
 
 
 
生きていてこそだけどな、死んでもこうやって探してくれる人がいてリュウゾウさんもしあわせや。
 
帰りの熱海駅で買った今朝の朝日新聞には、
 
チャフラフスカさんが来日して講演をしたという囲み記事が出てたが
 
まだ、尋ね人が見つかったとは書いてない。
 
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