5年前のちょうど今頃だった。
新橋にあったMさんの事務所に年末の挨拶に伺った。
Mさんは大先輩で、麻雀、ゴルフと、長いことお付き合いさせていただき
そのつながりから、たくさんの人と知りあうことができた。
その日も「碁」を数番打ったあと飲みにいこうということで、
やはり、新橋にあった「K」というバーに連れて行ってもらった。
カウンターとテーブルが3つ4っつあるだけの小さなところで、
我々はカウンターに腰掛けて飲みだした。
しばらくして、マスターが「そういえば、今日、銀ちゃんが来るって言ってたよ」
とMさんにはなしかけた。
「あっ そう。」と、Mさん。
「えっ。銀さんて、あの中部....?」
おれは前にMさんの事務所の本棚で、中部銀次郎の本をみつけ
「こんなの買ってるんだ」といったところ
「ちがうよ、貰ったんだ。みてみな、扉のところにサインがしてあるから。」
早速、本を手にとって扉を開けると、几帳面な筆使いの楷書体で
謹呈 M兄 中部銀次郎
としたためられていた。
「えっ、知り合いなの?」
と聞くと、飲み屋で会うようになったのだという。
「へー、こんな字を書くんだ」
性格がそのままあらわれているようなその文字をじっと眺めた。
少しふるえているように、一本の線を引くのにじっくり時間をかけて書いているようで、
しかしかどはきちっとして、全体のバランスが絶妙で、
きっと、このようにきっちりしたゴルフをするんだろうなと思ったものであった。
もっと前、オレが20歳の頃だからもう40年近くになるのか、一般紙のスポーツ面で、ゴルフのプロの大会にアマチュアが優勝とあって、その時初めて中部銀次郎の名を目にした。
「銀次郎」という特異な名前とともに凄い奴がいるんだなーと強く印象に残り、そのうちプロで活躍するんだろうと思っていた。その後もたびたび、その名を耳にしたが、結局、プロ入りしたという話は聞かなかった。
ほどなく、来た。あの中部銀次郎が来た。
想像していたより、ずっと小柄だった。
ドアを開け、一人でひっそりと入って来て、我々の並びのカウンターの右端に座り、
Mさんやマスターと挨拶をかわして水割りを飲みだした。
オレは憑かれたように立ち上がって中部さんのうしろに立ち、
「すいません、握手してください。」
と失礼を省みずに言った。
まるでミーハーだなと思いながら酔いも手伝い、伝説の人と出会えた興奮で、
自分でも思いがけない行動をとってしまった。
中部さんは振り返ると、にっこり笑って、
「病気が移るよ」
といいながら、握手をしてくれた。柔らかな手であった。
「どうして、プロにならなかったのですか?」
またまた、不躾な質問がしらずに口をついた。
「それは、おれの本をよんでくれればわかるよ」
顔は赤銅色に焼け、髪の毛は名前の通り、銀髪であった。
店を出て、Mさんに
「中部さん、どっか悪いの?」と聞くと、
「ガンらしいよ」
それから1年経った、2001年の、やはり暮れに訃報を聞いた。
プロにならなかった理由は、彼が10代の終わりに、日本のアマチュア代表チームの一員として、アメリカに行き、そこでニクラウス(当時はアマ)のプレーを見たからだという。自分のプレーが終わったあと、最終ホールにニクラウスがきたから見てやろうとホールサイドにいったところ、ニクラウスは2メートルを3パットした。
「なんだ、ニクラウスといっても人の子だ」
と思ったが、その後、成績表がまわってきて見ると、最終で3パットしたにもかかわらず、66でラウンドしている。自分は84。このとき、銀次郎は、世界を目指すのは夢物語。井の中の蛙に徹するのが自分の定めと決めたというのであった。
ところで、あのサインのある本、「ゴルフの神髄」は今、オレの手元にある。
訃報を聞いて、Mさんに是非にとお願いして、頂戴したのだ。
その親愛なるMさんも、また、2年前に還らぬ人となった。
新橋にあったMさんの事務所に年末の挨拶に伺った。
Mさんは大先輩で、麻雀、ゴルフと、長いことお付き合いさせていただき
そのつながりから、たくさんの人と知りあうことができた。
その日も「碁」を数番打ったあと飲みにいこうということで、
やはり、新橋にあった「K」というバーに連れて行ってもらった。
カウンターとテーブルが3つ4っつあるだけの小さなところで、
我々はカウンターに腰掛けて飲みだした。
しばらくして、マスターが「そういえば、今日、銀ちゃんが来るって言ってたよ」
とMさんにはなしかけた。
「あっ そう。」と、Mさん。
「えっ。銀さんて、あの中部....?」
おれは前にMさんの事務所の本棚で、中部銀次郎の本をみつけ
「こんなの買ってるんだ」といったところ
「ちがうよ、貰ったんだ。みてみな、扉のところにサインがしてあるから。」
早速、本を手にとって扉を開けると、几帳面な筆使いの楷書体で
謹呈 M兄 中部銀次郎
としたためられていた。
「えっ、知り合いなの?」
と聞くと、飲み屋で会うようになったのだという。
「へー、こんな字を書くんだ」
性格がそのままあらわれているようなその文字をじっと眺めた。
少しふるえているように、一本の線を引くのにじっくり時間をかけて書いているようで、
しかしかどはきちっとして、全体のバランスが絶妙で、
きっと、このようにきっちりしたゴルフをするんだろうなと思ったものであった。
もっと前、オレが20歳の頃だからもう40年近くになるのか、一般紙のスポーツ面で、ゴルフのプロの大会にアマチュアが優勝とあって、その時初めて中部銀次郎の名を目にした。
「銀次郎」という特異な名前とともに凄い奴がいるんだなーと強く印象に残り、そのうちプロで活躍するんだろうと思っていた。その後もたびたび、その名を耳にしたが、結局、プロ入りしたという話は聞かなかった。
ほどなく、来た。あの中部銀次郎が来た。
想像していたより、ずっと小柄だった。
ドアを開け、一人でひっそりと入って来て、我々の並びのカウンターの右端に座り、
Mさんやマスターと挨拶をかわして水割りを飲みだした。
オレは憑かれたように立ち上がって中部さんのうしろに立ち、
「すいません、握手してください。」
と失礼を省みずに言った。
まるでミーハーだなと思いながら酔いも手伝い、伝説の人と出会えた興奮で、
自分でも思いがけない行動をとってしまった。
中部さんは振り返ると、にっこり笑って、
「病気が移るよ」
といいながら、握手をしてくれた。柔らかな手であった。
「どうして、プロにならなかったのですか?」
またまた、不躾な質問がしらずに口をついた。
「それは、おれの本をよんでくれればわかるよ」
顔は赤銅色に焼け、髪の毛は名前の通り、銀髪であった。
店を出て、Mさんに
「中部さん、どっか悪いの?」と聞くと、
「ガンらしいよ」
それから1年経った、2001年の、やはり暮れに訃報を聞いた。
プロにならなかった理由は、彼が10代の終わりに、日本のアマチュア代表チームの一員として、アメリカに行き、そこでニクラウス(当時はアマ)のプレーを見たからだという。自分のプレーが終わったあと、最終ホールにニクラウスがきたから見てやろうとホールサイドにいったところ、ニクラウスは2メートルを3パットした。
「なんだ、ニクラウスといっても人の子だ」
と思ったが、その後、成績表がまわってきて見ると、最終で3パットしたにもかかわらず、66でラウンドしている。自分は84。このとき、銀次郎は、世界を目指すのは夢物語。井の中の蛙に徹するのが自分の定めと決めたというのであった。
ところで、あのサインのある本、「ゴルフの神髄」は今、オレの手元にある。
訃報を聞いて、Mさんに是非にとお願いして、頂戴したのだ。
その親愛なるMさんも、また、2年前に還らぬ人となった。