昨日は、楽しみにかよっている、万葉集の講座。

巻二の挽歌のお話をたっぷり。

感動しました。

挽歌の歴史、葬儀のありようについて、

まず、魏志倭人伝のこの記述。

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倭人の葬式には、棺はあるが、槨はない。土を盛り上げて墓を作る。

死んですぐに「かりもがり」を十何日か行い、その期間は肉食をせず、

喪主は声をあげて泣く。

その他の人はその場所にいて、歌い踊り酒を飲む。

墓に葬ってから、家じゅうの者が水浴に出かけ、

中国の喪あけのみそぎのようにする。

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歌については、

景行記 倭建命(やまとたけるのみこと) 大御葬歌、四つ。

ここでは、歌そのものは割愛。

倭建命の死の知らせを聞いて、大和にいた后たち、御子たちは、

田を這いまわって泣いて歌った、とか、

大きな白い千鳥となって飛んで行った倭建命を見て、

篠の切り株で足を傷つけながらも、泣きながら追いかけ歌った、とか、

海に入って、難儀しながら、千鳥を追いかけて歌った、とか、

千鳥が飛んで行ったとき、磯にいて、歌った、とか。

そして、それらの歌が、

「今日に至るまで、天皇の大葬の時には歌われる」と。

「今日」とは、古事記が編纂される天武朝。

つまり、葬儀で歌われる歌といっても、はじめのころは、

言葉それ自体に、死に関するものを形象していない。

農漁民の肉体労苦を表した労働歌を転用している。(諸説の一つ)

 

その後、大化5年(650年)3月、

孝徳紀の歌謡に、こんなのが登場する。

日本初の「挽歌」。

(訳のみ)

山川にオシドリが二羽、仲良く連れ添っているが、そのように連れ添っていた妻を、いったい誰が連れ去ったのだろうか

株ごとにみな花が咲いているのに、どうして愛しい妻は再び現れては来ないのか

 

妃(蘇我造媛)を失った皇太子(中大兄皇子、のちの天智天皇)は、

野中川原史満(のなかのかわはらのふびとみつ)のこの歌を聞き、嘆きくずれ、

「良い歌だなぁ、悲しい歌だなぁ」と歌を褒めたそう。

それまで、日本には、このような、死に関する歌であることを言葉の上で形象し得ている歌がなかった。

野中川原史満は、渡来系である可能性が高い、と。

もしかしたら、中国にあった挽歌を上手く日本語に翻訳したものかもしれない。

 

ま、そんなことで、すっかり長くなってきました。

7枚配られたプリントの、1枚を簡単に書いただけで、これだけ。

 

ここから、さらに、斉明紀の歌謡での挽歌をへて、

万葉集の挽歌、

天智天皇の崩御の時に詠まれた、挽歌へと続くお話。

 

天智天皇や、大津宮へ仕える人らは、志賀の唐崎で、船遊びをすることが多かったらしい。

天智の殯宮の設営場所は、記されていないが、

天武なら南庭、持統なら西庭、明日香皇女なら墓所近くと、

その時々で違っていたらしい。

歌などから、天智の殯宮は、

山稜近く、琵琶湖の見えるところ、両説がある。

 

魏志倭人伝は、3世紀、

倭建命は、はっきりわからないけど、

そのあと、天智天皇の崩御は、671年。

葬儀のありようは、どう変化したか。

そして、大和の人達も、自分たちで歌を作ってみようとするが、

そこで詠まれる挽歌も、

まだ、相手に対する思いを、

相聞で代用しようとしたり、

土地褒めの歌になったりする。

そこから、どのようにして脱却してゆくかが、

これからの楽しみだ。

 

簡単にかいつまんで書いても、

まだまだ、とても書ききれません。

先生って、本当にすごいなぁ。

 

今日はこれぐらいに。

 

すっかり夜。

明日は、町田、プレイハウスで「大土井でショー!」にYOYO部。

お待ちしています。

温かくして、はやめにおやすみください。

美しい明日へ心をこめて歌っています。

 

洋司