コメントありがとうございます。

いまこさん、人は、本当に、ほめられるとのびるって、新聞で読んだことがあります。

というわけで、久保田洋司、昨日書ききれなかった、額田王の歌を。

君待つと 我が恋ひ居(を)れば 我が屋戸の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 【万葉集巻四、488】

訳)大君のお出ましを待って わたしが恋い慕っておりますと わが家の戸のすだれを動かして秋の風が吹いております

風が簾を動かすのは、人が来る予兆でもある、と。

この歌、どうも、当時の感覚としては、斬新すぎる、と。

当時、近江朝における文雅(漢詩文)の興隆があった。

中国に負けない律令国家を目指して、当時都は、飛鳥から大津に遷っていて、

その近江朝では、漢詩文が、ものすごく、取り入れられていたそう。

閨怨詩(けいえんし)というジャンルが、中国にあった。

夫と離れている女の思いを歌った歌。

その中の、「楽府(がふ)詩集」に、こんな歌が。

***

夜相思

風吹窓簾動

言是所歓来

***

訓読すれば、

夜 相思フ

風ノ 窓ヲ吹キテ 簾ノ動ク

コレ歓(ウレ)シキ所(ヒト)の来レルカ

488の額田王の歌は、この閨怨詩を、やまと歌に再現したもの、かもしれません。

「歓来」をみれば、やはり、待ってた人が来たという、嬉しい感じがあるんでしょうね。

来なくて、風だけ吹いたよ、という淋しいのとは、ちがうかもしれませんね。

そして、488に続くのが、489、鏡王女(かがみのおほきみ)の歌。

風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ

訳)風をでも 恋い慕うとは羨ましいことです 風をでも 来るかと待つのでしたら 何を嘆くことがありましょう

どうも、こちらは、もう、私のところに待つ人は来ない、ということのようです。

風が吹いて、その人が来ると思えるんだから、羨ましい、こっちには、いくら風が吹いても、来ないんだ、という。

これにも、元になる漢詩があるのかどうか、僕にはわかりません。

もし、あったとしても、こうして、二つ並んでみると、額田王のほうが上手い、というのは、僕のような素人でも、ちょっとわかるような気がします。

天武朝になると、柿本人麻呂という大天才が登場し、額田王は、引っ込んでしまいますが、

それにしても、相当な才能だったことには、違いありません。

もう、ほとんど、一昨日の先生のお話を、メモしたものを、そのまま書いてるようなことですが、

ここに、もう一度書くことで、自分としても少しは、頭に入る感じがするのでした。

さ、そろそろ、打ち合わせに出かける時間。

今日も素敵な一日になりますように。

美しい明日へ心をこめて歌っています。

洋司