相見ては 恋慰むと 人は言へど 見て後にそも 恋増さりける (万葉集巻十一 2567)
訳)逢ったら 恋しさも消えると 人は言うが 逢った後こそ 恋しさが増すものだ
似たような歌をみると、人麻呂歌集より、
なかなかに 見ずあらましを 相見てゆ 恋しき心 まして思ほゆ(万葉集巻十一 2392)
大伴家持は、
相見てば しましく恋はなぎむかと 思へどいよよ 恋まさりけり(万葉集巻四 753)
どれも、恋しい人に会えなくて苦しい気持ちは、会えば、楽になるだろうと思っていたけど、
会ったら、そのあと、よけいに恋しく、苦しくなったよ、というもの。
人麻呂歌集に、こういう歌があるから、後の人たちが、皆、それをお手本に、意識して書いた、ということもあるかもしれません。でも、こういう感覚は、1300年ぐらい経って、電話も飛行機もインターネットもある今でも、わかるもの、のような気がします。
昔は、恋しい人に、どれぐらい会えて、どれぐらい会えなかったんでしょうね。
人麻呂なんかは、地方に赴任してるときに、好きな人が出来ますが、その後、移動で離れ離れ。もう一生会えないようなことも、あったようです。
家持など、モテモテで、たくさんの女性から、歌が届いてたみたいです。
恋の歌を、二十首以上送っても、家持から、つれなくされた笠郎女など、最後には、
相思はぬ人を思ふは 大寺の餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)づくがごと
という歌を送ってます。
「万葉集を読む」というサイトに、丁寧に解説されてます。興味ある方は、読んでみてください。
http://manyo.hix05.com/joryu/joryu.kasa.html
恋しい人に会えた時の、当時の人の喜びや、その後また、離れ離れになった悲しさは、どれくらいか、というのは、想像以上かもしれません。
「恋」という言葉について、古語辞典に面白いことが書いてあるので、書き写します。
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古語の「恋」
「恋」は現代語では、異性間の感情に使われるのが普通であるが、古語では、広く、人や事物に対して慕わしく思う気持ちを表す。そして、自分の求める人や事物が自分の手中にある時は「恋」の思いとならず、手中にしたいという思いのかなえられず、強くそれを願う気持ちが恋なのである。そのため、古語の「恋」は、現代語の「恋慕」に近い意味を表している。その意味から言って、古語の「恋」は、喜びにはならず、悲しさ、苦しさ、涙などと結びつく思いなのである。(旺文社 古語辞典より)
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「恋」は、「請い」や「乞い」と同じなのかもしれませんね。
昨日の万葉集講座も、面白いお話がいっぱいだったんですが、また、あらためて。
今日は、すっかり夕方。
素敵な一日になりますように。
美しい明日へ心をこめて歌っています。
洋司