昨日、万葉集の講座、楽しく、いいお話がいっぱいで、

いつも、とっても豊かな気持ちにさせていただいてます。

巻十一の柿本人麻呂歌集からの恋の歌が続いています。

昨日は、尾道のとなりの、福山のあたりのお話もありました。

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道の後(しり) 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり

訳)備後の国の深津島山の しばしでも あなたにお逢いできないと 苦しいのです。

 

この歌のときに、福山湾古図(沼名前神社蔵の絵図より)が、プリントで紹介されまして、

見れば、福山のあたりの、今は陸地のところが、昔は、海だったんですね。

そこに、深津。

津というんですから、港というか、船着場のようなところがあったんでしょう。

深津、奈良津、吉津村、などが手前にあり、その向こうは、海で、

海には、島が点々とあります。

その島々に、箕島、薬師、三吉沖、福山、などと名前が書いてあります。

僕などが、中学のときに、ギターを買いに行ったり、映画を見に行ったりした、福山は、

島だったのかぁ。あるいは、駅のあたりは、昔は海だったかもしれないなぁ、と、

キラキラの海の中を、歩いてる、中学生のことを、少し想像しながら、

先生のお話を聞いていたことでした。

 

平安時代になると、歌に歌われる名所みたいなものは、

風光明媚なところに固定されてくるんですが、

万葉時代は、まだ自由で、こうして唐突に、深津島山なども、登場するわけです。

そして、なぜ、そこなのか、といえば、それは、柿本人麻呂が公務で訪れた場所だったから、

かもしれません。

「君」と歌われていますから、女の人から男の人に、歌った歌、という形になっています。

 

島山の「しま」が、次の「しましく」を導く序になります。

しましく、を導きたければ、どこの島でもよさそうなものですが、深津島山と歌われれば、

そのあたりへの思い入れが感じられて、

近くに住んでいたものとしては、嬉しいことです。

 

深津地方に伝わる民謡ととる説もあるそうですが、

道の後、という説明があることからすると、そこには、都の人の手が、加わっているだろう、と。

そこに住む人とっては、場所の説明は、必要ないことですから、

民謡表現を取り入れながら、人麻呂が作った、ということかもしれません。

 

福山は、4月にライブでお邪魔しました。

また、楽器店に行ったり、映画を見たり、ぶらぶら、歩いてみたいなぁ。

 

今日も素敵な一日になりますように。

美しい明日へ心を込めて歌っています。

 

洋司