実物には、かなわないとしても、写真も、
素敵ですよね。

僕などは、中学生のころ、
ビートルズを大好きになって、
レコードジャケットなんかでしか、
見ることのない、ビートルズの写真を、
すごく見て、じょじょに、ポースターみたいなものとか、
カレンダーみたいなものとかを、手に入れて、
すごく見て、それでも、
ジョンのリッケンバッカーなど、細かいところが、
どうなっているのか、よくわからなくて、
ある種の妄想のうちに、その形を、
描いてみたりなどして、
それも含めて、自分にとっては出来る限りの、
ビートルズ体験をしていました。

高校で、リッケンバッカーのコピーモデルを、
入手した時は、だいぶディテールが、
わかったような気がして、感動がありました。

で、大人になって、本物のリッケンバッカーを、
入手してみれば、
やはり、本物はちがうなってことがよくわかり、
もう、中学の時からの、
欲求が、ついに、満たされた、とも、
思えるようなときがあり、
そのギターを、愛で、弾きたおすわけです。

で、ジョン・レノン・ミュージアムが出来て、
いってみれば、ジョンが使用していた、
本物の、リッケンバッカーが、そこに。

ガラスの向こうに、ありますが、もう、
ジョンの、本物なんで、
僕の本物とは、また違う、
さらに、満たされ、あふれるような思いで、
その、傷ひとつひとつも愛しく、
でも、ガラスの向こうで、触ることはできないという、
そのことが、また、愛しさを増幅させるというか、
見ても見ても、実際にはさわれない、
あの、中学の時の写真にもどったような感覚で、
だから、よけいに、
きゅんとするのかもしれないなぁ、と。

写真はフレームにおさまってますが、
実物は、おさまりきらない。

写真は、同じものを、またあとで、落ち着いて、
見たりもできますが、
実物は、夢中で見て、あまりに夢中過ぎて、
よく見てなかったみたいなこともあるかもしれません。

実物を見てるという、ある種の恍惚感は、
もう、見ていようが、いまいが、
そこを、超越したものなのかもしれないなぁ。

ちょっと、リッケンバッカー、触りたくなりました。

今日も素敵な一日でありますように。
美しい明日へ心をこめて歌っています。

洋司