万葉集には、
大陸から伝わってくる文化の影響が、
あるわけで、
梅にしても、当時、中国からの舶来で、
官人たちは、珍しいその梅を庭に植えて、
それを見るための宴を開いたりなど、
今で言えば、
薔薇の花咲き乱れる庭で、
パーティーみたいな。

前にも書きましたが、
シルクロードを通って来た、
もしかしたらこれは、
聖書からのつながりでしょう、とも思えるような、
ことも、ある、と。

そのあたりは、、中西進先生が、
ちらっと、教えてくださったことに、
こちらも、徐々に、想像を加えて、
楽しむことです。

万葉集巻十、1917に、

春雨で、
衣はひどく濡れ通るものでしょうか?
雨が降るから、
会いに来れないって、
じゃ、七日、雨が続けば、
七日も、会いに来ないんですか?

というような歌があって、
その、「七」という数字、
仏教にも取り入れられているわけですが、
元をたどっていくと、
インドのほうだったり、
または、例の聖書の、
六日働いて七日目は休んだ、というような、
ま、そういうことで、
中国にも、海外から入ってきた、
「七」というものの流行があって、
さらにそれが、日本に、みたいな。

そこで、僕なども、
ちょっと、聖書を読んでた頃を思い出し、
創世記の最初のほうに書いてある、
「われわれに似るように、
われわれのかたちに、
人を造ろう~」(創世記1-26)というところ、
また、にわかに、どういうことかな、
と思うんです。

いわゆる創造主は、お一人ですが、
「われわれ」というのが、どうしてか、と思い、
昔、ある方に、お尋ねしたところ、
「それは、イメージというものだ」と。

素晴しい、お答えをいただいたことでした。

で、また、イメージって、難しいなぁ、と、
昨日など、思っていましたら、
突然「おいら」って、いう語が、ふと。

「おいら」って、
「おい」と「ら」、つまり、
「俺たち」みたいな複数形だと思いますが、
自分ひとりを言うときも、
「おいら」って言うなぁ、と。

小学生のときの友達で、
自分のことを「おいら」っていう子が、やはりいて、
当然、その子のあだ名も「おいら」でしたから、
もう、それは、
一人称で、二人称で、三人称でもありました。

だから、「われわれ」というのも、
別訳すれば、「おいら」と。

聖書の、ライトファンとして、
好きだから、軽く、書かせていただいてますが、
「われわれに似るように~」というのは、
「おいらに似るように~」と思えば、これは!

何かがわかったような、わからないような。

でも、いつも、一緒にいるというような、
感じ、イメージは、ありがたいものですね。

洋司