先日、叔母と電話で話していると、
洋司くんの歌には、よく坂道が出てくるけど、
洋司くんの家のあの坂道は、
急じゃもんねぇ、あれが、
だいぶ、体にしみついとるんじゃろう。
というようなことを。
前にも書いたかもしれないけれど、
家の坂道のことは、
それが坂道だったということを、
忘れるぐらい、
普通に通っていた道だったので、
歌に出てくる坂道は、その坂道では、
ないような気がしていたのであった。
だから、やはりそれだけ、
体に染み付いていることは確かで、
もしかしたら、平地を歩いているとき、
それが、下り坂と感じるぐらいなのかもしれなく、
僕の歌に出る坂道は、
その、下り坂の坂道のことなのかもしれない、
のであった。
坂道や、石段を、駆け上がるのである。
たぶん、それは、尾道なら、
そういうことになるだろう、と思われる、
観念的な坂道。
だいぶ抽象的なものかもしれない。
尾道の実際の石段を駆け上るには、
そうとうな体力が必要と思われる。
まして、ロープウェイを追い越して、
駆け上がるなど、オリンピック選手でも、
難しいかもしれない。
でも、歌の中では、どんなことでも出来てしまい、
前に書いた、三島の、作家は作品の結果、なら、
実際には出来なくても、
思い出の中では、たぶん、そうとうな速さで、
千光寺まで、駆け上がって、その向こうに、
海を見たのであった。
実際は、海を見るには、振り返らなければいけない、
ような気がするが、
歌の中では、のぼったら、海が見えてしまうのであった。
駅の階段を上り下りするとき、
実は、ちょっと優越感というか、
これぐらいの階段、尾道出身者には、
なんてことはないんだ、という、驕りみたいなものが、
僕の中にあるような気がするのも、
これも、ある意味、体に染み込んだ坂道と、
作品の結果によるもののような気がするのである。
洋司
洋司くんの歌には、よく坂道が出てくるけど、
洋司くんの家のあの坂道は、
急じゃもんねぇ、あれが、
だいぶ、体にしみついとるんじゃろう。
というようなことを。
前にも書いたかもしれないけれど、
家の坂道のことは、
それが坂道だったということを、
忘れるぐらい、
普通に通っていた道だったので、
歌に出てくる坂道は、その坂道では、
ないような気がしていたのであった。
だから、やはりそれだけ、
体に染み付いていることは確かで、
もしかしたら、平地を歩いているとき、
それが、下り坂と感じるぐらいなのかもしれなく、
僕の歌に出る坂道は、
その、下り坂の坂道のことなのかもしれない、
のであった。
坂道や、石段を、駆け上がるのである。
たぶん、それは、尾道なら、
そういうことになるだろう、と思われる、
観念的な坂道。
だいぶ抽象的なものかもしれない。
尾道の実際の石段を駆け上るには、
そうとうな体力が必要と思われる。
まして、ロープウェイを追い越して、
駆け上がるなど、オリンピック選手でも、
難しいかもしれない。
でも、歌の中では、どんなことでも出来てしまい、
前に書いた、三島の、作家は作品の結果、なら、
実際には出来なくても、
思い出の中では、たぶん、そうとうな速さで、
千光寺まで、駆け上がって、その向こうに、
海を見たのであった。
実際は、海を見るには、振り返らなければいけない、
ような気がするが、
歌の中では、のぼったら、海が見えてしまうのであった。
駅の階段を上り下りするとき、
実は、ちょっと優越感というか、
これぐらいの階段、尾道出身者には、
なんてことはないんだ、という、驕りみたいなものが、
僕の中にあるような気がするのも、
これも、ある意味、体に染み込んだ坂道と、
作品の結果によるもののような気がするのである。
洋司