他の言語では、そのものを表すために、
その単語で言い表すほかない場合でも、
アラビア語では、
それを意味する単語が、数百にも達するのだそうである。
例えば、剣を意味する単語のみで、八百を数え、
獅子を意味する言葉が五百、蛇を意味するものが
二百もあるという。
前嶋信次著「アラビアン・ナイトの世界」で知った。
アラビア語は表現力が豊かなのだそうである。
「われわれの日本語も、なかなかに豊かであり、」
と書いてある。
「あなた」を意味する言葉のみでも、
二十いくつあるといわれている、と。
それを数え上げられるかどうか、
昨日、道を歩きながら、考えてみたところである。
あなた、きみ、おまえ、あんた、てめぇ、
きさま、おぬし、なんじ、そち、そなた、
「な」などは、もともとは自分のことであるが、
転じて、おまえ、という意味にもなっている。
それを思うと「自分」というのも、
文字通り、自分のことを言うほかに、
相手のことを、「自分」という場合も、ある。
「なんじ」もそれである。
「おのれ」もそうかぁ。
「てめぇ」も、「手前」の変化かぁ。
怒った時などに、「おのれ」と。
広島などでは、「おんどりゃぁ」となる。
「わりゃー」というのもあるが、
あれは「我は」であろう。
書いていて、
自分を意味する言葉が、相手を意味する言葉に、
転じるものが、いくつもあることに、
ちょっと、びっくりする。
「わりゃー」などは、怒っている時に、
「我は、お前に、怒っているんだぞ、こら」と言いたいところを、
怒りのために、短く縮めて言っているわけでは、なかろう。
やはり、
「わりゃー」というのは、
「お前ー」と言っているのだろうと思う。
話が変わってきてしまったが、
ま、そんなことやら、方言による変化、
あと、「あんたさん」みたいに、「さん」をつけるのも、
これも、ほかではニュアンスの付けにくい、
いい表現の一つであるから、
それらを、全部数えるとしたら、
なかなかに、豊かである。
アラビアン・ナイトでは、いいところで、
続きは、また明日、となるのであるが、
この「出来心」は、続かないのである。
洋司
その単語で言い表すほかない場合でも、
アラビア語では、
それを意味する単語が、数百にも達するのだそうである。
例えば、剣を意味する単語のみで、八百を数え、
獅子を意味する言葉が五百、蛇を意味するものが
二百もあるという。
前嶋信次著「アラビアン・ナイトの世界」で知った。
アラビア語は表現力が豊かなのだそうである。
「われわれの日本語も、なかなかに豊かであり、」
と書いてある。
「あなた」を意味する言葉のみでも、
二十いくつあるといわれている、と。
それを数え上げられるかどうか、
昨日、道を歩きながら、考えてみたところである。
あなた、きみ、おまえ、あんた、てめぇ、
きさま、おぬし、なんじ、そち、そなた、
「な」などは、もともとは自分のことであるが、
転じて、おまえ、という意味にもなっている。
それを思うと「自分」というのも、
文字通り、自分のことを言うほかに、
相手のことを、「自分」という場合も、ある。
「なんじ」もそれである。
「おのれ」もそうかぁ。
「てめぇ」も、「手前」の変化かぁ。
怒った時などに、「おのれ」と。
広島などでは、「おんどりゃぁ」となる。
「わりゃー」というのもあるが、
あれは「我は」であろう。
書いていて、
自分を意味する言葉が、相手を意味する言葉に、
転じるものが、いくつもあることに、
ちょっと、びっくりする。
「わりゃー」などは、怒っている時に、
「我は、お前に、怒っているんだぞ、こら」と言いたいところを、
怒りのために、短く縮めて言っているわけでは、なかろう。
やはり、
「わりゃー」というのは、
「お前ー」と言っているのだろうと思う。
話が変わってきてしまったが、
ま、そんなことやら、方言による変化、
あと、「あんたさん」みたいに、「さん」をつけるのも、
これも、ほかではニュアンスの付けにくい、
いい表現の一つであるから、
それらを、全部数えるとしたら、
なかなかに、豊かである。
アラビアン・ナイトでは、いいところで、
続きは、また明日、となるのであるが、
この「出来心」は、続かないのである。
洋司