今朝は、NHK教育、「心の時代」を見た。
禅宗寺のご住職のお話。

「蜂は、花のために、してやろうと思って、
花粉をはこぶのでもなく、
花は、蜂のために、してやろうと思って、
咲いているのでもない。

ただ、自然に、補い合い、頼りあって、
展開しているのであります。

人は生まれてから死ぬまでの間は、
意思を持って、生きているけれども、
死んで土に返ったら、これはもう、自然。」

そのお話に、聞き手のかたが、
すかさず、くいつく。

「仏教には、死はないのでは?」

ご住職、
「中国の皇帝が、いう不死と、
お釈迦さまのおっしゃる不死とは、
これは、違う意味なのでありまして、
単に、死なない、ということと、
いきいきと生きる、という、
真反対なので、あります。」

土に返っても、それは、その形で、
いるのであります、などとおっしゃるのかな、と
想像しながら見ていたけど、
また、違ったお答えであった。

禅といえば、道元の映画、
「禅 ZEN」、とっても良かった。

「あなたも座りませんか?」

ちょっと、座ってみよう。

「日めくり万葉集」でも、
似たようなお話があった。

志貴皇子が亡くなった時に、
笠金村が詠んだ歌

高円の 野辺の秋萩 いたづらに
 咲きか散るらむ 見る人なしに

萩の花は、見る人もいないのに、
なんのかいもなく咲き、散るのか、という。

「いたづらに」は、志貴皇子の、
采女の袖吹き返す明日香風
 都を遠み いたづらに吹く

の、いたづら。

皇位継承の有力者とされながら、
皇流の異なる天武天皇が即位してからは、
日の目をみることなく過ごした、
志貴皇子。

政権の抗争、出世、そういうものにまぎれて、
汚染されていく、ということから、はなれて暮らした。

いたづらに=無用、ということにおいて、
保障できる精神の気高さ。

そんなお話を、中西進先生から教わったことがある。

洋司