橘朝臣奈良麻呂(たちばなのあそんならまろ)、
大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)、
大伴宿禰書持(おおとものすくねふみもち)、
大伴宿禰池主(おおとものすくねいけぬし)、
三手代人名(みてしろのひとな)、
秦許遍麻呂(はだのこへまろ)、
犬養宿禰吉男(いぬかゐのすくねよしお)、
犬養宿禰持男(いぬかゐのすくねもちお)、
天平のある夜、736年の旧暦10月であるが、
将来を約束された、各一族の若手、
いわゆる「二世」のエリートたちによる、宴が、
開かれていたのである。
ここにあげた男子8人と、他に、女子2人。
当時、17~18歳の、奈良麻呂の主催による宴で、
主賓は、久米女王(くめのおほきみ)という、系統未詳の女性である。
それにしても、
ならまろ、やかもち、へこまろ、
などという名の中に、
よしお、という名は、目立つ。
ここに登場する、犬養吉男と、持男は、
兄弟だろう、といわれている。
家持と書持は、兄弟である。
奈良麻呂は、このときはまだ朝臣ではないが、
万葉集に、この宴が出てくる場面では、
後の位を、さかのぼって、朝臣と、書いてあるのである。
男たちは、宴の前に、
山で、紅葉を手折って来て、
頭にかざしたりなどして、
もう、ここまでやったんだから、
山の紅葉は、散ってもいいよ、などと、
詠うのである。
楽しげである。
しかし、
奈良麻呂は、このほぼ20年後、757年に、
反乱を起こし、失敗して処刑される。
官僚の台頭に対して、
伝統的な氏族が起こした反乱であったが、
密告により、実行はされずに終わった。
池主もこの反乱に加担し投獄、以後消息不明。
書持は、体が弱く、この10年後、早逝。
家持は、藤原種継の暗殺の首謀と見なされ、
死後、位を剥奪されている。
万葉集は、家持が左遷された因幡の国庁で詠んだ歌で、
幕を閉じる。
新たしき 年の初めの初春の
今日降る雪の いやしけ吉事
759年。
奈良麻呂の処刑から、2年目の正月である。
万葉集は、家持が、最終的な編纂者であるらしい。
どんな思いで、若い宴の歌を、
見たろう。
洋司
大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)、
大伴宿禰書持(おおとものすくねふみもち)、
大伴宿禰池主(おおとものすくねいけぬし)、
三手代人名(みてしろのひとな)、
秦許遍麻呂(はだのこへまろ)、
犬養宿禰吉男(いぬかゐのすくねよしお)、
犬養宿禰持男(いぬかゐのすくねもちお)、
天平のある夜、736年の旧暦10月であるが、
将来を約束された、各一族の若手、
いわゆる「二世」のエリートたちによる、宴が、
開かれていたのである。
ここにあげた男子8人と、他に、女子2人。
当時、17~18歳の、奈良麻呂の主催による宴で、
主賓は、久米女王(くめのおほきみ)という、系統未詳の女性である。
それにしても、
ならまろ、やかもち、へこまろ、
などという名の中に、
よしお、という名は、目立つ。
ここに登場する、犬養吉男と、持男は、
兄弟だろう、といわれている。
家持と書持は、兄弟である。
奈良麻呂は、このときはまだ朝臣ではないが、
万葉集に、この宴が出てくる場面では、
後の位を、さかのぼって、朝臣と、書いてあるのである。
男たちは、宴の前に、
山で、紅葉を手折って来て、
頭にかざしたりなどして、
もう、ここまでやったんだから、
山の紅葉は、散ってもいいよ、などと、
詠うのである。
楽しげである。
しかし、
奈良麻呂は、このほぼ20年後、757年に、
反乱を起こし、失敗して処刑される。
官僚の台頭に対して、
伝統的な氏族が起こした反乱であったが、
密告により、実行はされずに終わった。
池主もこの反乱に加担し投獄、以後消息不明。
書持は、体が弱く、この10年後、早逝。
家持は、藤原種継の暗殺の首謀と見なされ、
死後、位を剥奪されている。
万葉集は、家持が左遷された因幡の国庁で詠んだ歌で、
幕を閉じる。
新たしき 年の初めの初春の
今日降る雪の いやしけ吉事
759年。
奈良麻呂の処刑から、2年目の正月である。
万葉集は、家持が、最終的な編纂者であるらしい。
どんな思いで、若い宴の歌を、
見たろう。
洋司