今年の年賀状の、失敗作が、
今も、パソコンの机の上に、ある。
A Happy new year の、最初の A の影を、
丑年の、丑にして、作ってみた。
僕にしては、良い案だ、と、今見ても、
思うのは、いろんな意味で、幸せな者である。
Aと丑は、よく似ているから、
よくわからない。
よくわからないから、いいのかもしれない。
それを、ことさら強調するでもなく、
考えた者以外は、誰も気がつかず、
通り過ぎてしまうもの、
ということも、あるなぁ、と。
受け取り手の自由というのは、
それは、いろんなふうに受け取ることが出来て、
どのように解釈しても、
面白かったり、
それを解釈した人の、状況に、きれいに当てはまったり、
するということもあるけれど、
まったく、解釈しない、というすごさもあるのであった。
どうして、そうなっているのか、聞いて、
わかった時には、大変に嬉しいことであるが、
わからなかった時の、わかろうと思いもしなかった時の、
なんにもない感じは、失われるのであった。
宇宙は、自分が、自分以外のものではない、
無ではない、と気付いたところから、始まったとかなんとか。
その、無のほうも、あれ、自分は、無だ、
と思ったら、もう、無ではないのであった。
そこに、新しい宇宙ができれば、
そうでないものが、また、でき、それもすぐに、
あれ?自分は、などと、無ではなくなるという、
変な剥離風の、ファンタジーを楽しんでいるところである。
洋司
今も、パソコンの机の上に、ある。
A Happy new year の、最初の A の影を、
丑年の、丑にして、作ってみた。
僕にしては、良い案だ、と、今見ても、
思うのは、いろんな意味で、幸せな者である。
Aと丑は、よく似ているから、
よくわからない。
よくわからないから、いいのかもしれない。
それを、ことさら強調するでもなく、
考えた者以外は、誰も気がつかず、
通り過ぎてしまうもの、
ということも、あるなぁ、と。
受け取り手の自由というのは、
それは、いろんなふうに受け取ることが出来て、
どのように解釈しても、
面白かったり、
それを解釈した人の、状況に、きれいに当てはまったり、
するということもあるけれど、
まったく、解釈しない、というすごさもあるのであった。
どうして、そうなっているのか、聞いて、
わかった時には、大変に嬉しいことであるが、
わからなかった時の、わかろうと思いもしなかった時の、
なんにもない感じは、失われるのであった。
宇宙は、自分が、自分以外のものではない、
無ではない、と気付いたところから、始まったとかなんとか。
その、無のほうも、あれ、自分は、無だ、
と思ったら、もう、無ではないのであった。
そこに、新しい宇宙ができれば、
そうでないものが、また、でき、それもすぐに、
あれ?自分は、などと、無ではなくなるという、
変な剥離風の、ファンタジーを楽しんでいるところである。
洋司