何かに、わーっと取り組んで、
終わったあとに、一息ついていると、
さっきまでのことを、よく思い出せない、
ということがある。

たぶん、だいぶ集中して、
取り組んでいたのであろう。
その部分が、記憶から欠落する。

集中していた自分は、
もはや、自分ではなく、
あんなに、テキパキしていた自分も、
自分ではなく、
こうして、なかば呆然として、
漠然とした存在こそが、
自分なのである。

狼みたいな獣になって、
林の中を歩いているところを、
時々想像する。
そして、そのすぐあとに、
実は、狼などではなく、
もっと小さくて、弱そうな、
甲虫であったことに、気がつく。
いや、気付きもしないで、
地面に落ちた枯葉にさえよじ登りながら、
無心にカサカサ歩いている。

その彼ら(僕のことであるが、同時に、まったく僕ではない)の、
まっさらな意識、みたいなものに、憧憬を覚える。

何かを良い、というときには、
一方で、悪いものを区別して、そうでないものを、良いというのである。
現代人は、所有をするかしないかを、決める。

しかし、例えば、絶景に接した時などは、何も言えなくなる。

万葉のころは、生命主義に帰着するのである。
空や山や雲も含めて、命そのものに、感動する。
万葉の生命に触れるとは、そういうこと、と
中西先生から、教わった。

すごくいいところなのであるが、
この話と、僕の虫、
これは、つながってると、思っている。

洋司