先日、弟に会ったが、その時に弟は、僕のことを、痩せていておじいさんみたいだ、といったのである。
このところ、会う人ごとに、30代だ、いや20代にも見えるではないか、などといわれていたもので、遺伝的にも一番近い部類であろう弟からいわれた、この屈託のない、というのか 明け透けな、というのか、とにかくその真実に、感動すら覚えたのであった。
万葉のころは、40歳で還暦である。男性は、歳をとると、神さぶる、といって、神々しくなるのだそうだ。神々しく、人間ばなれする、というようなことで、恋の状態と反対に用いる、と中西先生の本に書いてある。
人麻呂歌集に、神さびても、私は恋をするのかなぁ、ということを詠った歌がある。
人麻呂は、このとき、何歳ぐらいだったんでしょう、という質問に、先生は、男子は15歳ぐらいが恋の適齢期であったから、まぁ、二十歳くらいでしょうか、と。
采女(うねめ)というのは、天皇のお世話をした、うるわしい女性たちのことであるが、その采女は大勢いるので、なかなか天皇には、会えない人もいる。一度召されて、それっきりという場合も、多くあったようである。
采女は、天皇以外と恋をしてはいけないのである。
そういう采女たちに仕えている老人が、ついついその気になった。つまり采女に恋してしまって、ある采女、ならばかなえてやろう、などと、無理難題。傲慢な女性が、老人をからかう、というお話も、たくさんあるそうである。
その老人とは、何歳ぐらいだったのか、聞けばよかった、と思ったところである。下手すると、僕より、年下だったかもしれないのである。
太宰治の「お伽草子」に出てくるおじいさんは、40歳ぐらいなのである。面白い話ばかりで大好きであるが、それで、僕は、弟から、そういわれて、そのお伽草子の主人公になったような、気分だったのである。
洋司
このところ、会う人ごとに、30代だ、いや20代にも見えるではないか、などといわれていたもので、遺伝的にも一番近い部類であろう弟からいわれた、この屈託のない、というのか 明け透けな、というのか、とにかくその真実に、感動すら覚えたのであった。
万葉のころは、40歳で還暦である。男性は、歳をとると、神さぶる、といって、神々しくなるのだそうだ。神々しく、人間ばなれする、というようなことで、恋の状態と反対に用いる、と中西先生の本に書いてある。
人麻呂歌集に、神さびても、私は恋をするのかなぁ、ということを詠った歌がある。
人麻呂は、このとき、何歳ぐらいだったんでしょう、という質問に、先生は、男子は15歳ぐらいが恋の適齢期であったから、まぁ、二十歳くらいでしょうか、と。
采女(うねめ)というのは、天皇のお世話をした、うるわしい女性たちのことであるが、その采女は大勢いるので、なかなか天皇には、会えない人もいる。一度召されて、それっきりという場合も、多くあったようである。
采女は、天皇以外と恋をしてはいけないのである。
そういう采女たちに仕えている老人が、ついついその気になった。つまり采女に恋してしまって、ある采女、ならばかなえてやろう、などと、無理難題。傲慢な女性が、老人をからかう、というお話も、たくさんあるそうである。
その老人とは、何歳ぐらいだったのか、聞けばよかった、と思ったところである。下手すると、僕より、年下だったかもしれないのである。
太宰治の「お伽草子」に出てくるおじいさんは、40歳ぐらいなのである。面白い話ばかりで大好きであるが、それで、僕は、弟から、そういわれて、そのお伽草子の主人公になったような、気分だったのである。
洋司