ある日、帰省したときのことである。父が49歳ということで、得意の洒落で「始終臭い、じゃ」と笑わせたものである。二十年近く前のことになる。もう、五十ではないか。そうなるか、といくらかの感慨を覚えたものである。自分の父の名前やら年齢やら仕事やらを、小さい時から、だんだんに知って、そのたびに、それなりに不思議な気持ちがしたもので、それを踏まえれば、非常に勝手ながら、36歳というのが、僕の中では父の年齢の基準であったのだ。始終臭いかぁと。ところがである。
先日、仲良くしていただいている友人と会えば、49歳と。ま、計算上、そうなるのは知っているけれども、いつかの帰省の日の、始終臭いの場面を思い出すに、よろめいたところである。もうお一人、こちらは46歳。49歳の方が三十を過ぎたばかりの頃に、三人出会い、何かのたびに集まってきた。ここにきて、今が一番若いのだとおっしゃる。これから流れる時間の、今が一番はじめと。そういえば似たような感想を最近なにかで読んだ。これまでのことはすべてこれからのためにあったのだと。どちらにしても、今という点の存在感、強さを思うことである。
洋司
先日、仲良くしていただいている友人と会えば、49歳と。ま、計算上、そうなるのは知っているけれども、いつかの帰省の日の、始終臭いの場面を思い出すに、よろめいたところである。もうお一人、こちらは46歳。49歳の方が三十を過ぎたばかりの頃に、三人出会い、何かのたびに集まってきた。ここにきて、今が一番若いのだとおっしゃる。これから流れる時間の、今が一番はじめと。そういえば似たような感想を最近なにかで読んだ。これまでのことはすべてこれからのためにあったのだと。どちらにしても、今という点の存在感、強さを思うことである。
洋司