デビュー当時は、テレビやラジオに出るにも、オーディションがあって、それをパスしないと、例えば、NHKやFM東京などには出られなかった。NHKのオーディションは、お年寄りの方々が審査されてて、どんな不良ロックバンドも、その方たちの前で演奏をする。ほぼ流れ作業で、形ばかりのことが多い。
「はい、次、ザ・とうざいなんぼくさん」と呼ばれた。僕らはカラオケあてぶりで、「ため息のマイナーコード」をやった。ドラムの大池君もエレキギターをかまえた。たしか加納順はあてぶりなのに、弦を切る熱演だった。
FM東京では、スタジオでいろいろインタビューを受ける形。「内心」に引っ掛けて、わざと「外心」という変な言葉づかいをした。「イタバリ・ローカ」とか「星がっちゃうねジャマイカ」とかを作っている者として、少し衒ったような話し方をした。あとで、バンドのディレクターから、たくさん本を読め、ひやひやするぞ、と言われ、そういうふうに聞こえてしまったことを、悔やんだ。そのディレクターは読書家で、稲垣足穂やレイ・ブラッドベリなんかをすすめてくれた。出版の人で、いつも何冊も小説を持ち歩いている人がいて、その人からは、映画や60年代のマージー・ビートについて、いろいろ教わった。なにしろ、85年当時40歳ぐらいだから、その方の青春は、60’sだ。興味深かったし、その方も熱く語ってくださった。思えば非常にありがたかった。おすすめの映画をいろいろ見た。ほとんど、よくわからなかったり、途中で眠ったり、時間がなくて、途中で映画館を出たりで、中途半端となった。これも、悔やまれる。宣伝の方からは「ベルリン天使の詩」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「アルジャーノンに花束を」など、最先端のところを教わり、事務所の方からは、「モンテクリスト伯」など、大作を教わった。アレンジャーからはフィリップ・K・ディック。けっこうはまってたくさん読んだ。映画をあまり見てないので、今になって、少しずつ追っかけたいと思っている。
洋司
「はい、次、ザ・とうざいなんぼくさん」と呼ばれた。僕らはカラオケあてぶりで、「ため息のマイナーコード」をやった。ドラムの大池君もエレキギターをかまえた。たしか加納順はあてぶりなのに、弦を切る熱演だった。
FM東京では、スタジオでいろいろインタビューを受ける形。「内心」に引っ掛けて、わざと「外心」という変な言葉づかいをした。「イタバリ・ローカ」とか「星がっちゃうねジャマイカ」とかを作っている者として、少し衒ったような話し方をした。あとで、バンドのディレクターから、たくさん本を読め、ひやひやするぞ、と言われ、そういうふうに聞こえてしまったことを、悔やんだ。そのディレクターは読書家で、稲垣足穂やレイ・ブラッドベリなんかをすすめてくれた。出版の人で、いつも何冊も小説を持ち歩いている人がいて、その人からは、映画や60年代のマージー・ビートについて、いろいろ教わった。なにしろ、85年当時40歳ぐらいだから、その方の青春は、60’sだ。興味深かったし、その方も熱く語ってくださった。思えば非常にありがたかった。おすすめの映画をいろいろ見た。ほとんど、よくわからなかったり、途中で眠ったり、時間がなくて、途中で映画館を出たりで、中途半端となった。これも、悔やまれる。宣伝の方からは「ベルリン天使の詩」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「アルジャーノンに花束を」など、最先端のところを教わり、事務所の方からは、「モンテクリスト伯」など、大作を教わった。アレンジャーからはフィリップ・K・ディック。けっこうはまってたくさん読んだ。映画をあまり見てないので、今になって、少しずつ追っかけたいと思っている。
洋司