徳川時代の能について、喜多六平太と三島由紀夫の対談。
喜多によると、町で能をやったりするとき、当時は拍手というものはなくて、お客は、わいわい声を立て、「よう」とか「やあ」とか「しっかり」とか怒鳴っていたのだそうである。そういうときは、やってる方が何を言ってるかは、お客にはほとんど聞こえないが、一旦静かになって、文句一つ間違えたら、すぐにお尋ねがあり、そうすると、「改めました」といって平気で通したのだとか。あくまで、間違えたんじゃなくて、直したんだと言い張るわけである。なにしろ、間違いは、今でいう月給が減らされることになる。それで、文句ははじめから、はっきり聞こえないように言ってたとか。
あるとき御勅使の能で、絶対に正しくやらなきゃいけないときに、非常に芸のよかった人が、間違っちゃって、それですぐ島流しになったそうである。その人は罪人用の籠で途中まで運ばれたところで、将軍から、「待て」とお沙汰があって、島流しは逃れたそうであるが、それも、芸が良かったからなのだそうである。
日ごろから芸を磨いて、とにかく大事な時には、危ないことはしなかったのだそうで、厳しい世界には違いないだろうが、いろいろ気をつけながらやってたんだな、というのが、面白く思った。
洋司
喜多によると、町で能をやったりするとき、当時は拍手というものはなくて、お客は、わいわい声を立て、「よう」とか「やあ」とか「しっかり」とか怒鳴っていたのだそうである。そういうときは、やってる方が何を言ってるかは、お客にはほとんど聞こえないが、一旦静かになって、文句一つ間違えたら、すぐにお尋ねがあり、そうすると、「改めました」といって平気で通したのだとか。あくまで、間違えたんじゃなくて、直したんだと言い張るわけである。なにしろ、間違いは、今でいう月給が減らされることになる。それで、文句ははじめから、はっきり聞こえないように言ってたとか。
あるとき御勅使の能で、絶対に正しくやらなきゃいけないときに、非常に芸のよかった人が、間違っちゃって、それですぐ島流しになったそうである。その人は罪人用の籠で途中まで運ばれたところで、将軍から、「待て」とお沙汰があって、島流しは逃れたそうであるが、それも、芸が良かったからなのだそうである。
日ごろから芸を磨いて、とにかく大事な時には、危ないことはしなかったのだそうで、厳しい世界には違いないだろうが、いろいろ気をつけながらやってたんだな、というのが、面白く思った。
洋司