「歯切れのいい話術に自信があって、オチの前に間を持たせたりする。巧みに前置きをはしょって、敏感な話し手だということを衒ったりする。いつもにこやかで、穏和な皮肉屋で、老人に対する敬意を忘れず、自分が退屈な人間であろうなどとは夢にも思っていない」人物が、「天人五衰」に出てくる。
前の文は抜粋であるが、主人公の老人が思っていることであるから、三島が書いていても、三島が普段、特定の人に、感じていることを、そのまま書いているというわけでもない。主人公には、それ相当の人生があって、たどり着いている思いなのである。小説の中のことであるから、誰が誰に対して言ったことでも、面白いと思えこそすれ、創作であれば、それで、誰かが傷つくとかいうことは、ま、ないと思ってもいい。せいぜい読んでる僕が場面によっては、自分もそうだと思うところに行き当たり、冷やりとするくらいで、それは、創作を読む楽しみでもあると僕は思っている。さっきのところなど、自分は、歯切れのいい会話が出来るでもなし、敏感な話し手でもない、老人に敬意を忘れていまいか、こんな人がうらやましいと思ってたら、最後に、そんな自分が退屈な人間だとは、夢にも~というところになって、しまったと思うような、ちょっとした仕掛けでもある。この場面の場合は違うけれど、小説の内容によっては、ある嫉妬から、わざとそんな風に言う人物を作ることもできる。つまり、それらは、作者は、苦心して創作してるので、例えば、太宰が評論家か誰かに、「太宰はあんなこと書きながら、陰でウヒヒと笑っていたにちがいない」など書かれて、非常に怒っていたが、「ウヒヒ」などということは、ないわけである。「ウヒヒと下品に笑ったりするのは、お前だろ」と太宰が反撃していて、読者はすっきりしたぐらいである。
洋司
前の文は抜粋であるが、主人公の老人が思っていることであるから、三島が書いていても、三島が普段、特定の人に、感じていることを、そのまま書いているというわけでもない。主人公には、それ相当の人生があって、たどり着いている思いなのである。小説の中のことであるから、誰が誰に対して言ったことでも、面白いと思えこそすれ、創作であれば、それで、誰かが傷つくとかいうことは、ま、ないと思ってもいい。せいぜい読んでる僕が場面によっては、自分もそうだと思うところに行き当たり、冷やりとするくらいで、それは、創作を読む楽しみでもあると僕は思っている。さっきのところなど、自分は、歯切れのいい会話が出来るでもなし、敏感な話し手でもない、老人に敬意を忘れていまいか、こんな人がうらやましいと思ってたら、最後に、そんな自分が退屈な人間だとは、夢にも~というところになって、しまったと思うような、ちょっとした仕掛けでもある。この場面の場合は違うけれど、小説の内容によっては、ある嫉妬から、わざとそんな風に言う人物を作ることもできる。つまり、それらは、作者は、苦心して創作してるので、例えば、太宰が評論家か誰かに、「太宰はあんなこと書きながら、陰でウヒヒと笑っていたにちがいない」など書かれて、非常に怒っていたが、「ウヒヒ」などということは、ないわけである。「ウヒヒと下品に笑ったりするのは、お前だろ」と太宰が反撃していて、読者はすっきりしたぐらいである。
洋司