三島由紀夫は「葉隠」にとりつかれるにつれ、「葉隠」がののしっている「芸能」の道に生きている、自身の行動倫理と芸術との相克に、悩まなければならなかったそうである。文学の中には、どうしても、卑怯(ひきょう)なものがひそんでいるという疑惑がおもてに出てきた。それで「文武両道」を強く必要としはじめた。それが言いやすく行いがたいことは百も承知でいながら、そこにしか、自身の芸術家として生きるエクスキューズはない、と思い定めるようになったと。
「葉隠」の美しく透明な、さわやかな世界は、文学の世界の泥沼を、おびやかし挑発するもの。芸術の永遠のアンチテーゼで、その存在が、芸術の姿をはっきり呈示してくれることにおいて、「葉隠」の意味があると。
それにしても、三島は文学の中に、卑怯や泥沼がひそんでいることは、とっくに知っていただけに、「葉隠入門」についても逆説が楽しみなところである。僕は、まだぱらぱらめくった程度であるが、「年齢」という段では、「微妙な逆説」とか言っている。知恵分別が四十歳で得られるのならば、そのとき、それを活用する力が残っていなければならない。しかし、多くは分別が得られたときには力を失っている。それを戒めたものと思われる。と書いている。まだ別の本も読み終えてないのであるが、「葉隠入門」は、だいぶ楽しみにしている。
洋司
「葉隠」の美しく透明な、さわやかな世界は、文学の世界の泥沼を、おびやかし挑発するもの。芸術の永遠のアンチテーゼで、その存在が、芸術の姿をはっきり呈示してくれることにおいて、「葉隠」の意味があると。
それにしても、三島は文学の中に、卑怯や泥沼がひそんでいることは、とっくに知っていただけに、「葉隠入門」についても逆説が楽しみなところである。僕は、まだぱらぱらめくった程度であるが、「年齢」という段では、「微妙な逆説」とか言っている。知恵分別が四十歳で得られるのならば、そのとき、それを活用する力が残っていなければならない。しかし、多くは分別が得られたときには力を失っている。それを戒めたものと思われる。と書いている。まだ別の本も読み終えてないのであるが、「葉隠入門」は、だいぶ楽しみにしている。
洋司