老狐が、罠の危険を百も知りながら、ついに狂おしく餌に飛びつくように、経験や知識、熟達や老練、理性や客観的能力、すべてが無効になるばかりか、却ってそういうものの堆積が否応なしに人を無分別へ追い込む、その瞬間を待っていた。

「豊饒の海(三)暁の寺」に出てくる一節である。

関係ないが、どこかの古い民謡に、こんな話がある。
砂漠で、喉が渇いた旅人がビンに入った水を見つける。それは涸れた井戸の呼び水に使うための水だ。ビンの水を飲んでしまうか、呼び水につかって、新鮮な水を大量に得るか。どっちを選ぶかは、旅人が決めることである。
「暁の寺」の登場人物には、まだ、そういう瞬間が来ていなくて、もし、砂漠でビンの水を見つけても、迷わず、呼び水に使ってしまうところであろう。
それに比べて、老狐は、もう飛びついてしまっている。百も承知である。醜い老狐の姿を思い浮かべるかもしれないが、これは美しい話ではなかろうか。

洋司