家の庭の片隅に池があり、小さな鯉が泳いでいた。そのまわりに、どうかしたような形の松やら百日紅やら躑躅(つつじ)やらが植えてあり、さらに、なんとかしたような石なども、そこここに置いてあり、縁側から曽祖父は、それを眺めたりしていたのだろう。
池はいけないというので、僕が子供のころに、池は埋められた。その庭の片隅の木々草花や石や池の空間は、あまり入ってはいけないことになっていたので、僕はいまでも、帰省時、そこにあまり入らないばかりか、そこを見ることも憚ったりする気持ちがある。

庭で思い出したが、京都、龍安寺の枯山水の石庭、教科書なんかにも出ていたかもしれない、黒い石であるが、最近、これは長年風雨にさらされていて、汚れているではないかと、ここにきて掃除をしたのだそうである。してみると、赤やら青やら緑やらの色の石だったとかで、それまでの黒い石を見て、これが悟りの境地だとか、わびださびだ、言ってたところが、少々、具合の悪い事になったとかなんとか。庭が作られた意図などは、確実な資料がないためにわからないようである。

それにしても、苔やら時代やらは、初めから、そういう石を持ってきて置いていたのか、色あざやかな石を置いて、それを見て楽しんだのか。ま、どっちにしても、それはそこに、ただあって、見るも見ないも、なにもかもゆだねられて、また、それさえ、どっちでもいいようなことのような、ものすごいことのような気もする。

洋司