東京の親戚に琵琶の演奏家がいて、その血を継いでいるのだと、僕がギターを弾くのを見て、祖母は言ったものである。祖母は幼い頃、東京に出て歌手になる、というのが夢だったそうである。それを聞いた東京の親戚が、汽車で一日かけて、祖母のことを引き取りにきた。汽車の煙で鼻のまわりなど真っ黒だったそうである。いよいよ上京という段になって、祖母の母が、別れに泣いたとか。その涙に祖母は東京行きを断念したのだと、半分笑い話にして、お正月か何かの折に聞かせてくれたことがある。内輪では有名な話のようで、親戚の者はみな、話に話を継ぐようにして、にぎやかであった。

祖母は舞踊を習いに行ったりしていたし、人を楽しませるのが、非常に上手かった。町内の老人会の芸能家であった。その祖母が、老人会の出し物で使うから、禿げちゃびんのかつらを作ってくれと、僕に作らせたことがある。お勉強に比べると、工作は好きであった。糊と新聞紙で頭の型を作り、すっぽりかぶれる、なかなかいいのができた。そのかつらをかぶって、面白い演芸をする祖母を見、僕もだいぶ笑ったし、あのかつらは僕が作ったのだと、心ひそかに自慢であった。

祖母は現在は、体も弱り、まさか踊ったりなどできないが、毎日、レコードをかけながら踊りの練習をしていた時のことなど話せば、懐かしそうである。
僕はといえば、その祖母の血は、あまり継いでないようで、人前に出ても、たいして面白くない子供であった。親戚が集まり、洋司君はギターを弾けるんだって、ということになり、みなの前ではじめるのであるが、だんだんにみな、あくびをこらえた、なみだ目で、こわばった表情なのである。ジャーンと終わって見得を切るでもなく、へなちょこアルペジオを、ひっかかりひっかかり、やめないのである。従兄が、昔、フォークをやってて、みなの前で、なんだかわからないがとにかく、ジャンジャカにぎやかなのをやって、喝采をあびたことがある。上手くはなかったけれど、楽しかったのを覚えている。むしろ祖母やら、琵琶演奏家の血は、そちらに行っており、僕の手前で、川筋はそれたようである。

洋司