何年か前に帰省した時のことである。
福山駅に、車で母が迎えに来てくれたのかな。そのまま、鞆の海岸へ行き、砂浜づたいの道で待っていると、漁師さんが、今、舟からおりてきて獲ってきたばかりの魚をその場でわけてくれるのである。それを家で母が刺身にしてくれたり、料理してくれたりして食べたのであるが、これが非常に美味い。
子供のころなどは、シャコをバケツいっぱい、生きてるやつを突然どこからか、父だか、祖母だか、とにかく大人の誰かが持ってきて、それを一気にゆでて食べるが、これがまた美味い。殻で指を少し切って、あとでちょっと痒くなったりするが、もう満足なのである。腹いっぱい食ったものである。非常に贅沢なことである。
今は、だいぶ食が細くなった、などと書くのは変かもしれないが、がつがつ、どこまでも食うというようなことがなくなった。人の体は、年齢とともに変わるのであるから、四十になって、二十代の若者のように食うというのは、必ずしもいいことではないかもしれない。
美味いものを適量、例えば、尾道の智(のり)'s kitchenやいっきょうなど、同年代の友人、知人の出したお店でいただくなど、これもうれしいことと思うのである。
洋司
福山駅に、車で母が迎えに来てくれたのかな。そのまま、鞆の海岸へ行き、砂浜づたいの道で待っていると、漁師さんが、今、舟からおりてきて獲ってきたばかりの魚をその場でわけてくれるのである。それを家で母が刺身にしてくれたり、料理してくれたりして食べたのであるが、これが非常に美味い。
子供のころなどは、シャコをバケツいっぱい、生きてるやつを突然どこからか、父だか、祖母だか、とにかく大人の誰かが持ってきて、それを一気にゆでて食べるが、これがまた美味い。殻で指を少し切って、あとでちょっと痒くなったりするが、もう満足なのである。腹いっぱい食ったものである。非常に贅沢なことである。
今は、だいぶ食が細くなった、などと書くのは変かもしれないが、がつがつ、どこまでも食うというようなことがなくなった。人の体は、年齢とともに変わるのであるから、四十になって、二十代の若者のように食うというのは、必ずしもいいことではないかもしれない。
美味いものを適量、例えば、尾道の智(のり)'s kitchenやいっきょうなど、同年代の友人、知人の出したお店でいただくなど、これもうれしいことと思うのである。
洋司