火鉢を、親戚の家ではじめて見たときには、心細い気がしたものである。
正月の寒い日に、尾道よりも少しだけ山間のその親戚の家に行けば、昭和40年代のことであるが、非常に静かな、透き通るような、風景がそこにあって、自然にわびさびのある出居の冷たい畳の上に、火鉢があった。近寄ってみても、たいして温かくなく、うっすら灰の匂いがする。それがなんだか非常に懐かしいものとして、心に残っている。
火鉢の温もりは、こっちが面倒を見てやるような関係があるような気がするが、今、電気の暖房の中にいれば、これはもう無関係というか、温かいけど冷たいなと、妙な言い方をしそうになってしまうのである。
洋司
正月の寒い日に、尾道よりも少しだけ山間のその親戚の家に行けば、昭和40年代のことであるが、非常に静かな、透き通るような、風景がそこにあって、自然にわびさびのある出居の冷たい畳の上に、火鉢があった。近寄ってみても、たいして温かくなく、うっすら灰の匂いがする。それがなんだか非常に懐かしいものとして、心に残っている。
火鉢の温もりは、こっちが面倒を見てやるような関係があるような気がするが、今、電気の暖房の中にいれば、これはもう無関係というか、温かいけど冷たいなと、妙な言い方をしそうになってしまうのである。
洋司