道の道とすべきは、常の道にあらず。真理は固定したものではない。「無」はつねに現象(有)として現れようとし、「有」はつねに現象以前の状態(無)に返ろうとする。「無」と「有」は、つまり同じものだが、われわれの知覚に上る場合を異にすることによって、違った名が与えられているのである。と、徳間書店中国の思想第六巻、老子・列子より、少々抜粋させていただいた。

松本隆さんの小説「三日月姫」に、これを元にしたような場面が出てくる。
雪が溶けて、水になって、蒸発してゆく。今たまたま、この形をしてるだけで、本当は、皆、違う形なのかも。人間だって~。また、バイクに乗れば、風景が傾いて見える。いつもと違って見えるが、本当の姿はこれではないかと思う~。と。

このあいだ、松本さんと話したときも、ちょっと老子の話が出て、興味深く、昔読んで、途中でやめてた老子を、また読んだりしている。
フイゴの話、久々に見れば、何も無いところから風をおこす、というのは、ま、違わなくも無いが、どちらかといえば、何も無いから風をおこせる、というようなニュアンスである。

天地の間は、巨大なフイゴである。フイゴの中はうつろだからこそ、無尽蔵だ。動けばいくらでも風が吹き出る。天地の創造力は、かくて無限である。うつろなもののはたらきが無限であるのに対して、作為は施せば施すほど行きづまるものだ。人はコセコセした小知をはたらかせず、心の中をむなしくして、世界をあるがままに受け入れるがよい。
こう書けば書くほど、これこそ、小知のような気がしてくるのであるが、ま、それもよし。老子が誰なのかは、謎とされているが、こういう考えは、考えに考え、悩みに悩みぬいたから、到達したのか、ふとひらめいたのか。悩みに悩んで、ふとひらめいた、というところかもしれない。

洋司