シュバイツァーは、子供のころに、友達に誘われて、鳥打に行き、パチンコでいざ、という時に、教会の鐘。「生き物を殺してはならぬ」と聞こえたそうである。
牧師の家に育ったシュバイツァーである。三十から医者になる勉強をし、アフリカへ。病気や怪我の人を救い、戦争中は、捕虜になりながらも、建築の勉強をし、再びアフリカに戻った時には、自分で病院を建てた。「生き物を殺してはならぬ」と聞こえたのは、心象で、現実には、カーンカーンとかだったわけであろう。
詞にする場合、「殺すな、殺すな」と鐘がなっても、あんまりよくない。鐘はカーンとかで、いい。ところが、物語となると、「生き物を~」と書ける。面白いところである。字数などという物理的な問題もあるが、歌になれば、情景は情景だけで、心に響いたりするものである。
ところで、ずっと前にも書いたことがあるが、ブレーメンの音楽隊の鶏、「ひっとらえろー」と聞こえて、泥棒らは、あわてて逃げたとか。これが、原語では、実際はどう聞こえたのか、ま、興味深いけれども、あの動物ら、泥棒の家に、そのまま住み着いたのだったか、それはそれで、略奪であろう。
感傷、心象は、とらえかたで、まったく違うことである。
蛍の光、窓の雪。目悪くしたであろう。
洋司
牧師の家に育ったシュバイツァーである。三十から医者になる勉強をし、アフリカへ。病気や怪我の人を救い、戦争中は、捕虜になりながらも、建築の勉強をし、再びアフリカに戻った時には、自分で病院を建てた。「生き物を殺してはならぬ」と聞こえたのは、心象で、現実には、カーンカーンとかだったわけであろう。
詞にする場合、「殺すな、殺すな」と鐘がなっても、あんまりよくない。鐘はカーンとかで、いい。ところが、物語となると、「生き物を~」と書ける。面白いところである。字数などという物理的な問題もあるが、歌になれば、情景は情景だけで、心に響いたりするものである。
ところで、ずっと前にも書いたことがあるが、ブレーメンの音楽隊の鶏、「ひっとらえろー」と聞こえて、泥棒らは、あわてて逃げたとか。これが、原語では、実際はどう聞こえたのか、ま、興味深いけれども、あの動物ら、泥棒の家に、そのまま住み着いたのだったか、それはそれで、略奪であろう。
感傷、心象は、とらえかたで、まったく違うことである。
蛍の光、窓の雪。目悪くしたであろう。
洋司