2026.11  瞑想ヨガの会リモート瞑想 空間瞑想の指導者和泉さんのメッセージ

「あらためてこれまでの私の瞑想を見直してみる」

 

 

人間は、いまこの一瞬に在ることを幸せと感じる???

それ以外で感じる幸せ感は

その記憶によってそのように感じ取っているのだろう。

 いま、この一瞬に何を感じるのだろうか、何を想うだろうか?

 いや、いまこの一瞬には、何かを感じるというのではなく、

何かを想うということもなく、

「ただ在ること」だけに気づいている瞬間である。

その「気づき」が幸せと言えば幸せなのだが、

人はその”一瞬”にすら気づくことなく、たとえ気づいたとしても、

意味のないものとして捨て去るのだ。

 

しかし、人は誰でもこの一瞬の存在、幸せの記憶を持っている。

だからこそ無意識であっても”それ”を求めて想い

行動しているのだろう。

人は人生の様々な場面で喜びを味わい幸せを感じることがある。

悲しみや苦しみが深かったときほど喜びも幸せも大きいものだ。

その様なときほど人生のドラマは高揚し刺激的なものとなる。

平々凡々とした平和な生活に幸せを感じるより、

人はドラマを求める傾向がある。

しかしドラマの中に本当の幸せを感じることはない。

日常の静けさの中の”一瞬の存在”に気づいたとき、

幸せというものが何かせずただ在ることに気づいたときに現われるものだ、と

 

今、ここに身体と心を投げ出して、

まことに静かで充足しているとき、

胎児が母親にすべてを任せて幸せの内に、ただ在ることを感じているのと同じであることに

気がついていることでしょう。

 今の一瞬にはそのようなこれと同じ存在体があると思われます。

 

しかし、今、この一瞬は、時間のさけ目にかいま見える一瞬に気づく事実であるだけに、

直ぐや元の状態に引き戻されてしまいます。

しかも、この一瞬を観ることさえ日常意識(心のはたらき)では難しいものです。

これは、心を使って気づくことではなく、心のはたらく以前の直観力によってしか捉えられない

時間を超えた意識の働きだからです。

意識のはたらきは、何ものにも制約されない自由で時間・空間を超えています。

それは本当の私であり“瞑想意識”です。

研ぎすまされた直観力は、時間のさけ目から「私の存在の真実」へ直接入ることが出来ます。

それは、いつ、どこにいても、どのような状況下にあっても意識さえあれば可能です。

ーーー

確かな実感を伴うものであり、単なる想いではありません。

それは、超過時間という一瞬の短い時間をではなく、

時間と空間を超え“私の存在”を実感することであり、

型(瞑想)の深い瞑想によって味わう境地と同じものなのです。

これを実践出来るか否かは、型の進化のプロセスの或る段階を示すものでもあります。

型は一回一回が進化のプロセスです。 うまくいくときも、

うまくいかないときも道を歩みつづけています。

 それなのに長年継続しているとマンネリと感じられるときもあります

。先へ進んでいる感じがしないのです。

型が惰性折れのようなか、同じような“今、この瞬間に在る”ことは、確かな実感を伴うものであり、

単なる想いではありません。

それは、超短時間という一瞬の短い時間ではなく、

時間と空間を超え“私の存在”を実感することであり、

瞑想者が深い瞑想によって気づく境地と同じものなのです。

これを実践出来るか否かは、瞑想の進化のプロセスのある段階を示すものでもあります。

瞑想は一回一回が進化の過程です。 うまくいくときも、

うまくいかないときも道を歩みつづけています。

 それなのに長年継続しているとマンネリと感じられるときもあります。先へ進んでいる感じがしないのです。

瞑想反応で新鮮なものがなく、同じような反応が毎回続くようなときです。

このようなときは改めて瞑想を見直し、日頃の瞑想の仕方を変えてみる必要があります。

 

大切なのは、一日の内で、いつ、どのように瞑想しているかを

リサーチし、一週間単位で型のライフサイクルを組み立て直すことです。

仕事や雑務、睡眠、テレビや交友といった瞑想以外の時間を調整し直し、

それらに左右されない”瞑想のための確かな時間”を確保しなければなりません。

瞑想は後回し、というでは瞑想を進化させることはおぼつきません。

私の本質を見極める作業である瞑想がそのように軽く扱われて良いはずはありません。

瞑想を人生の重要な事業と捉えられないとき、 (事実これほど重要な事はないのだが)

瞑想に向うエネルギーは委縮し、挫折することにもなりかねません。

瞑想を永年やっていてもその重要性の大きさには気づきにくいもので、

自らこのことに気づくことは至難の技です。

 と言うのは、その人の瞑想の理解は、その人の瞑想体験の内容までのことで、

その先どれだけの体験が起こるかについては全く無知であるからです。

今の時点で「瞑想とはこんなものか」と判断するのは、

大変な誤解であり、無限である瞑想の奥深さを知らずして頓挫すること必然です。

瞑想は、今も、これからも、どこまでいっても判断することなく歩みつづけることの中で道は拓けていきます。 

歩みつづける一歩一歩の出会いが新鮮でわくわくしながら未知の世界を進むのが瞑想の道です。

 

瞑想に誘われて毎日の瞑想時間が楽しみであるという感覚が持てないときは、

 これまで瞑想を見直してみる必要があります。

それは瞑想を深めていく生活の条件を見直すことでもあります。

そのことで生活も瞑想的に改善されていきます。

瞑想は、生きるすべてと関連しているので私が生きることすべての中で捉えるものでなければならないのです。

                                     2026.11  和泉好彦