以前に書いた事を再度、言わせてもらう


私が今まで知り合ったり仲良くなったり、時には悲しみや苦しみを共にしたり、一緒に楽しい時間を過ごしたりした人たち

その人たちを含めた世界中の民族の中の特定の民族に対して、日本人として罵声や暴言を吐いたり、暴力を加えたりする事は許さない


私は常々言っている

地球上で最も嫌いな生命体は人間だ

日本人でもなく、アメリカ人でもなく、韓国人でもなく、オーストラリア人でもなく、アフリカ人でもなく、何人でもなく

私と関わっていただいている人間には申し訳ないが、そう思っている


伊勢に来て猫に出逢い色々な体験をした

楽しい事、苦い事、色々、

もちろん、その経験は私だけのものであって、他人にはわからないし私も他人の経験の事はわからない

その経験が素晴らしいかどうかは私の頭や心の中でかみしめればいいと思っている

ただ、個人的に関わった人間の中で個人的に許せない事をする人間がいた

たくさんいた

それは、あくまでも個人であって○○人とかではない

その事について、その一個人を責め立てるなら好きにすればいい

でも、その一個人がそうだからといって、その一個人の所属する民族を責める必要は無い

否、責めてはいけない


我々日本人は反省が足りない、反省と学習、どちらも足りないと思う


先ほど、○○人と言って責め立てるのは良くないと言ったけれども、あえて日本人と言いたい

なぜなら、私も日本人で私の親も日本人だから

その前の前の前…などは皆目わからない

足りないという表現はあながち間違いでは無いと思う

それは、反省も学習も終わりがないからだ

反省は対象が納得、ないし許可が得られれば終わると思ったら大間違い

時間は戻せないし、してしまった事も消えないから、一生つきまとうものだと思ってていいくらいだと思う

学習はすればするほど良いのだから一生学習するべきだろうと思う

勉学ではなく人生の中の学習


例えば、誰かをひどいやり方で傷つけたとしよう

それが正義であろうが悪であろうが、傷つけた事には変わりはない

だから、人を傷つけたらどうなるかを一生忘れてはならないし、同じ事に遭遇したら一呼吸おいてどうすべきか考えなければならないと思う

これが反省と学習

逆も言えると思う

誰かにひどいやり方で傷つけられたとしよう

なぜこのように傷つけられたのか、何が原因だったのか、どのようにすれば解決するのかを考え、傷つけられた意味を一生忘れないで、自分が同じ事をしないようにしなければならない

これも反省と学習ではなかろうか


憎しみや悲しみの負の要因の発生はあくまでも個人的なものであって欲しい

それは出来れば発生しないに越したことはないが、生きてる以上なにかしらの事はあるだろう

ましてや、私のように自ら発生させる必要は全く無いと思う

それが正しいやり方とは思わないし、なにかしらの罰が下ると思うから


もう一度言う

韓国人が嫌いだ、中国人が嫌いだなどという言い方で責め立てるのは間違っている

直接何かされたならその一個人を責め立てればいい


日本人なら日本人の誇りを持って、大きな心でドンと構えていればよろし

くだらない事ばかり言ってないで、自分の周りの人間に目を向けて、その人たちを大切に生きていけばよろし


一部の人間の言う事に惑わされるような精神力ではなく、もっと自分の心や頭に問いかけて、理屈よりも体が動くような生き方をしていきたいもんだ


他人の正義よりも、自分の心を信じて欲しいもんだ





私は子供の頃から生意気なガキだった

人にものを言う時は上から、親も頭の悪い人間だと今も思っている

当たり前の事を当たり前として考えれなかったり、言えなかったり、行動出来ない人間はダメ人間という概念が今も離れない

だから想像がつくように、私には敵が多かっただろう、否、実際多かった

というよりむしろ、ダメ人間をバカにしていたし今もバカにするだろうと思う

こう言ってしまうと、私はなんてとんでもない人間なんだと周りの人間は思うだろうね

実際とんでもない人間なのかもしれない

けれど、ここでも私は正論を自分につきつけてみた


正論を口に出す人間は当たり前の事を当たり前として考えなければならない、言えなければならない、行動出来なければならない

他人に正論を言うという事はそういう事だ

全て己に返ってくる事だ


常々、自分が口にした事は最後まで責任を持てだの、てめぇのケツはてめぇで拭けだの、有言実行だのを私は吐いてきたしこれからも吐くつもり

それは、こういった理論から成り立つものなのだという事を再認識し、且つ、私は真四角で頭が固くて融通の利かないガチガチの人間だと思った

だから、強くみられるのだろうと思う

自分の放つ全ての事に対し大なり小なり自信があるから

だけど、時には自信の無い時もあるし、間違っていると指摘される時もある

その時は自分が納得いくまで考え、頭で間違っていたとわかるまでの時間が必要になる

なんともやっかいな人間だ

でも、私はすごく大事な事だと思う

正論を口に出すという事よりも、自分の考えた事や言った事、行動について全ての大人が各々で責任を持つべきだと思うし、その責任の上で子供にブレない態度で話をするべきだと思う


自分の言動に責任を持たない大人が多すぎると感じる


物事の本質的な部分をひとりひとりが少し考えてみる事で、違った論理が発生し理解しあったり話し合ったり時には決別するものなんじゃないかと思う

結果がどうあれ、本質的な部分を考える事と正論が間違っていない事は表裏一体で、正論が必ずしも正しくあらなければならないという事がないのであっても、正論=綺麗事を現実にしようとする事は間違っていないと思う


少し話がそれたけど、要は、

何かを言われた、もしくはされた

その事について額面通り受け取るのではなく、言葉や行動の本質的な部分を自分なりに考えて、同意するなり反省するなり異論するなりするのが大人だと思う

それが正論であろうがなかろうが、自分にとって結論が正しければ正しいし悪であれば悪

それだけの事


少なくとも、どんな場合にせよ、本質的な部分を考えれない大人は私にとってダメ人間

即ち、救いようがない、ということになる


私も難しい事がわからない分野が星の数ほどある

けれど、決して考えるのをやめない、理解しようとする事をやめない

やめる時は死ぬ時、死んだら考えなくなるかどうかなんてわからないから


とにかく、大人なら考えろ、と言いたい


考えれるようになったら大人だと言いたい


ちなみに本質的な部分という表現を少し説明

・ 言葉の裏、意味

・ なんでだろうと思う事、理由

・ 相手の身になって考える事

・ もしこうだったらと考える事

・ 本当は何が言いたいのだろうの本当は何を考える事

などなど

以上が全てではないし、当てはまらないパターンもあるだろう

けど、私はこれらを考える事により物事の本質的な部分を考える事になると信じている


なんか真面目に書いた

深い意味は…結構ある…


まぁ、私はなんてきゅうくつな人間やろかっちゅー事やね










いつかの山~寒いけど、薪ストーブの凄さは計り知れない~



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意地でも薪ストーブの側にいたい、ミリーさん
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薪ストーブの後を陣取った、マリーさん、小雪、小梅
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その傍らにひっそりと、小春
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薪ストーブの横のソファは取り合い~

マリーさん、ニコ、トラ

引いてみるとこんな感じ~
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なんとも平和な山でありんす~

実は、薪ストーブをつけて、旦那さんの友人からわけてもらった薪を燃やすと

小屋の中は最高20℃近くいくのだ~

だから、色々作業をしていると、デブの私は汗だくになるのであった~

帰る時は13℃くらいにしてから帰るのよ、危ないからね~


さて、今日も行くかな~

まずは夕飯だな~

何しよっかな~