私は子供の頃から生意気なガキだった

人にものを言う時は上から、親も頭の悪い人間だと今も思っている

当たり前の事を当たり前として考えれなかったり、言えなかったり、行動出来ない人間はダメ人間という概念が今も離れない

だから想像がつくように、私には敵が多かっただろう、否、実際多かった

というよりむしろ、ダメ人間をバカにしていたし今もバカにするだろうと思う

こう言ってしまうと、私はなんてとんでもない人間なんだと周りの人間は思うだろうね

実際とんでもない人間なのかもしれない

けれど、ここでも私は正論を自分につきつけてみた


正論を口に出す人間は当たり前の事を当たり前として考えなければならない、言えなければならない、行動出来なければならない

他人に正論を言うという事はそういう事だ

全て己に返ってくる事だ


常々、自分が口にした事は最後まで責任を持てだの、てめぇのケツはてめぇで拭けだの、有言実行だのを私は吐いてきたしこれからも吐くつもり

それは、こういった理論から成り立つものなのだという事を再認識し、且つ、私は真四角で頭が固くて融通の利かないガチガチの人間だと思った

だから、強くみられるのだろうと思う

自分の放つ全ての事に対し大なり小なり自信があるから

だけど、時には自信の無い時もあるし、間違っていると指摘される時もある

その時は自分が納得いくまで考え、頭で間違っていたとわかるまでの時間が必要になる

なんともやっかいな人間だ

でも、私はすごく大事な事だと思う

正論を口に出すという事よりも、自分の考えた事や言った事、行動について全ての大人が各々で責任を持つべきだと思うし、その責任の上で子供にブレない態度で話をするべきだと思う


自分の言動に責任を持たない大人が多すぎると感じる


物事の本質的な部分をひとりひとりが少し考えてみる事で、違った論理が発生し理解しあったり話し合ったり時には決別するものなんじゃないかと思う

結果がどうあれ、本質的な部分を考える事と正論が間違っていない事は表裏一体で、正論が必ずしも正しくあらなければならないという事がないのであっても、正論=綺麗事を現実にしようとする事は間違っていないと思う


少し話がそれたけど、要は、

何かを言われた、もしくはされた

その事について額面通り受け取るのではなく、言葉や行動の本質的な部分を自分なりに考えて、同意するなり反省するなり異論するなりするのが大人だと思う

それが正論であろうがなかろうが、自分にとって結論が正しければ正しいし悪であれば悪

それだけの事


少なくとも、どんな場合にせよ、本質的な部分を考えれない大人は私にとってダメ人間

即ち、救いようがない、ということになる


私も難しい事がわからない分野が星の数ほどある

けれど、決して考えるのをやめない、理解しようとする事をやめない

やめる時は死ぬ時、死んだら考えなくなるかどうかなんてわからないから


とにかく、大人なら考えろ、と言いたい


考えれるようになったら大人だと言いたい


ちなみに本質的な部分という表現を少し説明

・ 言葉の裏、意味

・ なんでだろうと思う事、理由

・ 相手の身になって考える事

・ もしこうだったらと考える事

・ 本当は何が言いたいのだろうの本当は何を考える事

などなど

以上が全てではないし、当てはまらないパターンもあるだろう

けど、私はこれらを考える事により物事の本質的な部分を考える事になると信じている


なんか真面目に書いた

深い意味は…結構ある…


まぁ、私はなんてきゅうくつな人間やろかっちゅー事やね