ある冬の凍る日、ひとりの少女が住まいを追われ、籠に押し込まれた。
 いつも乗っていた輿ではなく、粗雑な作りの籠に、彼女はひどく困惑して何度も嗚咽を漏らす。いつもは少なくとも四人いた力者は二人しかおらず、山奥の悪路のせいで縦に横に大きく揺れる。ぼろぼろの簾の隙間から見える闇はどこまでも深く、籠に取り付けられているごく小さな松明によって揺らめく。彼女の頬は、幾重にも流れた涙によってがさがさになっていた。
 彼女の口元がおぼろげに動いた。息が白く広がり、かすれた音が、その奥からこぼれ出る。しかし繋がらないそれは、籠の外へすら出ることも叶わず、やがて散らばって消えた。彼女は目を閉じ、頭の中で幾度も、これは夢なのだ、きっとすぐにでも覚めてしまう夢なのだと繰り返した。きっと日が昇れば、あの温かな乳母の腕の中へ帰ることが出来るのだと信じようとした。
 乳母の温もりを思い出して、彼女は余計に心細くなってしまった。恐いよう、助けてと口に出しそうになって、それをなんとか思いとどまった。
 あの人はワタシが守らなくてはいけないのだから。

 彼女はまだ6つにもならない稚児だった。伸びきらない髪は肩の上で切り揃えられており、右手の親指を噛む癖が抜けていない。
 それでも彼女は、人の多く集まる場所に何度も出ていかなかければならなかった。そういうときに、決まって彼女の癖はひどくなる。乳母はそれを、人に打ち開くように大きな声で窘めた。彼女がどうにか口から手を離すと、乳母はとても辛そうな顔をした。人の集う方へ向き直って、何事かを申し訳なさそうに言い並べるのだった。
 そしてその場所から離れてもいいとなったころ、人のいない場所で乳母は彼女を抱きすくめて、
「ごめんなさい、ごめんなさいね。あなたにばかりこんなに辛いことをさせてしまって。あなたが悪いんじゃない、あなたはちっとも悪くないの」
 と言って泣いた。
 乳母はまだとても若かった。彼女を抱きすくめる乳母の腕はか細く、彼女はそれを頼りなく思った。しかし、とても温かいとも感じていた。ふと、乳母が彼女の顔を覗き込んで、懸命に笑って見せようとすると、彼女はそれを守って見せたいとすら感じた。
 庵に帰るまでの間、彼女は乳母の手を両手で包んで歩いた。乳母が物思いに沈むような素振りを見せると、そのたびに両手に力をこめて、乳母を見上げて笑って見せた。乳母はそれを見て、また泣いた。
「あなたは強いのね。あなたにはきっと道の開ける廻りが訪れるわ」
 乳母はかがんで、彼女の手を拝むように掲げて、小さな声で、ぽつり、ぽつりとよく意味の分からない語を呟いた。
 そして決まって最後に、こう言うのである。

「……ふるえ、ふるえ、ゆらゆらとふるえ」

   *   *


 どれほどの時間が流れただろうか。
 気付くと彼女は、黒々と塗り潰された空間に放り出されていた。
 空気はぎんと冷たく、骨を打つようである。風が吹き、耳の奥を打つ。彼女は屋外に放り出されていた。彼女を運んできたはずの籠はどこにも見当たらず、あたりは闇と静寂に包まれていた。
 彼女は悲鳴を上げようとした。しかし声が出ない。助けを求めようとした。しかし何を言えばいいのかが分からない。ごう、と音がして風が吹き抜けていき、彼女は背筋に抜き身を当てられたような底無しの冷たさを知った。すぐにでもここから立ち去らなければならないと感じた。
  立ち上がろうとして、体に力が入らないことに気付く。
 どうにか体の動く部分を動かすと、彼女は這い出すような格好になった。がさり、と体のあちこちから音がする。もう一度身をよじると、またがさりと音がした。彼女のまわりを、がさがさした何かが覆っている。
 腕を伸ばして、そこにあるものをつかむ。がさり、たくさんの薄くかわいた何かが手の中で砕けた。
 ぼろり、ぼろりと指の間から抜け落ちていく。枯葉だった。
 彼女は自分の居る場所を、それで知ることが出来た。
 体をまたよじって、仰向けになる。遠く上方から、少しずつ光が漏れてくる。月の光だった。ゆらゆらふわりと降りてくる月の光は、彼女と彼女の周りを少しだけ照らし、やがて広く周囲を照らしていった。
 森だった。
 欠けることの無い月の光が、薄く薄くなって降りてくる、とても深い森だった。
 彼女は、風にあわせて揺れる木々の葉を愕然として眺めた。小さく空いた口の中にも、月の光は降りてきていた。その口が、わなわなと震える。
 とても深い森である。彼女は、立ち上がって見渡すまでもなく、どこまでも続く森の闇を見て取った。彼女の息が浅くなっていく。彼女の口腔は乾き、やがて目が大きく開かれた。

「おい、よかったのか、あんなとこに放り出しちまって」
「俺たちの知ったことかい。おめえも見たろう、あの妙な注連縄をよ」
 二人の男が山道を下っていく。逃げるように、転げるように、籠を担いで駆けていく。前の男は引っ張るようにして一目散に、後ろの男はそれに引かれるように、しかし何度も後ろを振り返りながら。
「で、でもよ、あれでも陰陽師の児だぞ、何かないとも限らん」
「やかましい、とにかく急いで都へ帰るんじゃ。そしてどこかで一夜をやり過ごす、そうしたら我らは確かに山向こうの庵の婆に児を預けたんじゃぞ」
「でもお前」
「やかましいと言う。これ以上何を言っても始まらん、もう戻れんのじゃ。わしはあの道がおそろしくて叶わん。鬼や化物のひとつやふたつ出てきてもおかしくなかろう」
「だから危ないというのじゃ、陰陽の児が影の者を連れて山を降りてくる話を知らんのか」
「知らん! そんな話は知らん!」
「嘘をつけ、わしはこの話をお前からきいたんじゃぞ」
「知らんと言ったら知らん! 良いか、都に降りたら絶対に誰にも気付かれたらいかんぞ。そして朝になったら、我らはあの児を山向こうまで届けたんじゃ。良いな」
「しかし、あの注連縄……」
「もう黙れ! なんならお前ひとりで戻ればいい!」
 前の男が足を早めたので、後ろの男は危うく転げそうになった。松明が揺れ、影は転々と山道を下っていった。
 その姿を見送る影が、木々の間からゆらりと身をあらわにした。
「ふむ……ほうほう」
 男だった。装いは位の高い宮仕えのそれで、頭に浅く烏帽子を乗せている。細いひげを走らせた口元に含みのある笑みを浮かべて、静かに腕を組んだ。その足元には、真っ二つに切断された注連縄が落ちている。
「影の道通ずるところ陽のもとに還らん、とな」
 男は、じり、と断たれた注連縄を踏みにじり、さらに歪んだ笑みを浮かべると、一度木々の闇を振り返ってから、自らも山道をおりはじめた。