分かりやすい説明とはこういう事をいうんですねー。



~為末大オフィシャルサイト~より



なぜ天才はクレイジーに見えるのか
 天才と言われる人を見たり話を聞いて、違和感というか普通と違うものを感じる事は無いでしょうか。狂気というと大げさかもしれませんが、何か根幹が普通じゃないという違和感です。
 もちろん普通と違う才能を持っている訳ですから、普通と違って当然でそれがこちらから見てクレイジーに見えてるのかもしれませんが、私なりに一つ理由を挙げてみたいと思います。天才の定義は僕にもはっきり説明できないので、一応何かに秀でた才能を持った人というぐらいの括りで考えてください。

 人は、いくつかの欲を持って生きています。例えば物を欲しがったり、人に褒められたかったり、異性にもてたかったり。それからこれも欲の一つでしょうけど、人生で大事にしてきた自分のプリンシブルみたいなものもあります。勇ましくいたいとか、素直でいたいとか、賢くありたいとか、です。
 人はこういったいろんな軸、欲を持っている為に物事を決定する時に悩みます。何かを選ぶのは何かを選ばない事で、一体何が自分にとって本当に重要なのかを考え、その都度人は悩みます。
 
 所謂秀才と言われる人は、この自分の欲をある程度コントロールする人間だと私は思っています。人がつい流されてしまう所を理性で考え、物事に順序を付けるので、結果行動と人生が一貫性を持ちます。大事な事を成し遂げる為に、それ以外の大事なものを諦める事ができる人間です。
 意識して人生をコントロールできているわけで素晴らしいのですが、もしもそもそも欲があちこちに分かれていなかったらどうでしょうか?
 
 私は天才と言われる人の狂気というのをここに見ています。本来人が持ち合わせているはずの欲、つまり未練というものが欠如していると感じるのです。

 例えば、人は多かれ少なかれ人からどう見えているかを意識して生きていますが、天才といわれる人の中にそういう感覚が全く欠如しているのではないかと思う人がいます。人目を気にするという未練の欠如です。
 それから人は濃淡はあれ金銭や物に執着しますが、これに全く執着していないように見える人もいます。物質に興味を示さず自分のやりたい事だけに意識がいっている、物への未練の欠如です。

 欲がない訳ではないのですが、何か欲が所々抜けていて、代わりにある一点に、好奇心である事が多いですが、集中している。執着と未練が一点投下されている印象です。だからそこでの集中力とそこから得られる成長がとてつもなく、持って生まれた才能とともに結果として、抜きん出る。
 普通迷うでしょという局面で迷わない。普通目がいくでしょというものに目がいかない。そういう部分に違和感を感じ、我々から見て大げさに言うと狂気に見えるのではないでしょうか。
 秀才と結果としては同じなのですが、秀才は頭では分かっていてもやっぱり未練は残っていて、大事な物に意識を集中する事にそれなりに労力を費やします。私は天才の不気味さを、この迷いが見えない所に感じます。

 実際にそうなのか、私にはそう見えているだけなのかわかりませんが、今のところ私の経験の中から考えた天才がクレイジーに見える理由はこれです。
 普通の人はそもそも未練が欠如する等意識してはできませんから、結局努力でできる事はとにかく一番成し遂げたい事を絞り、その為に他を諦める努力をし続けるしかありません。それが天才ではない人の戦い方ではないかなと思っています。




自分は天才ではないので、天才ではない人の戦い方をやって行こうと思います。


がんばるっすグッド!