「わかり方」の探究 思索と行動の原点/佐伯 胖
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八戸市の学力テストから、常に「資料の読み取り」「読解力」が足りないなあという問題があがります。
「問題をよく読みなさい」などと言ってはみてみるものの、教師側が「具体的指導」をしているかというと、
「読書をしなさい」とか、「問題をたくさん解きなさい」などと言って、逃げているのではないでしょうか・・・

「読解力」の正体 p116
ブランスフォードらによると、読解力の低い子ども達の多くがもつ特徴は、それが読解であれ、算数の文章題であれ、理科の説明理解であれ、
子ども自身が自分で「もっともだ」と納得できるように文章を精緻か(エラボレート)することをしようとしないのだという。つまり、「どうしてそうでなければいけないのか」の必然性を探ったり、その理由を推察したり、「他のことではどうしていけないのか」という他の可能性を排除しようとしたり、というような積極的なはたらきかけを自分からしようとしないのである。
(中略)
物事を説明する文章を示したとき、少しでも理由付けや根拠を自分で考えてみれば分かるのに、そのような理由付けや根拠を明示していない文章を与えると、自分でそれらを補おうとしないで、文字通り「字ヅラ」のみを何度も読んでいるだけである。
一方、読解力の高い子どもは、自分で理由付けや根拠を補おうとするため、読解に要する時間は成績の低い子どもより長いけれども、「なるほどそうだ、さもありなん」という実感を得たものについては、きわめてよく理解しているのである。
(中略)
何といっても、「おぼえよう、おぼえよう」とだけ考えていたときと比べて、「どうしてそうでなければいけないのか。他のことではなぜダメか」などと考える方がよく記憶できるという事実は、彼らにとってはまさに「発見」であり、驚くべき体験のようである。

教師は学びのプロであるべきだと考えます。教師に指導するための理論があるのとないのとでは、生徒の理解度は雲泥の差になるでしょう。
以前は「これテストに出るからな、覚えてね」なんて、指導0の発言をよくしていたものです。
生徒は素直ですから、「おぼえよう、おぼえよう」として、結局「字ヅラ」をおう学習になってしまっていました・・・大反省です。

「どうしてそうでなければいけないのか」を問うことで、記憶の定着を図ると共に、その教材がもっている「文化的な背景」に生徒が触れられるよう、授業を考えてみたいと思います。まずは、授業課題をこの形態で考えることから始めたいと思います。

 

休眠中だった八戸社会認識教育研究会をWEB上で復活させました。

メンバーの皆さんが大変お忙しので、WEB上で交流、勉強を深められたら、いつどこでも思索が深められます。

まずは、私の読書からの感想を発信していきます。


「わかり方」の探究 思索と行動の原点/佐伯 胖

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「事態の必然性」の納得 p113より引用


まず、次の短文を読んでおぼえていただきたい。

①背の高い人が花火を買った。

②はげ頭の人が新聞を読んだ。

③ふざけた人が指輪を好んだ。

④腹の空いた人がネクタイを買った。

⑤背の低い人がほうきを使った。

⑥力の強い人が本を流し読みした。


さて、右のような文をおぼえるとき、従来の情報処理水準の考え方からすれば、たとえば①ならば、ジャイアント馬場がお祭りの夜店で花火を買っている場面を連想する、というような「手がかりづくり」が効果的だということになる。あるいは、「背が高い」というのがどういう意味か、身長170センチ以上の人か、165センチではどうか、などと考えたり、「花火」にはどんなものがあるか。線香花火か、ロケット花火か。花火をして遊んだ過去の経験は?といったことを考えておくのがよい、という次第である。

 ところが、ブランスフォードらは、従来の「てがかりづくり」とはまるで考え方の異なるアプローチを提案している。それは、①でいうならば、「そもそも、どうして背の高い人が花火を買ったのか?」と考えるのである。なぜ背の低い人や太った人ではないのか。どうしても背の高い人でなければならない必然性を持つ事態を考えるのである。たとえば、おもちゃ屋さんの棚の一番高い所においてあった花火を、背の高い人がひょいととって買ったという事態を考えてみることもできよう。

(中略)

ブランスフォードらは、人がこういう「必然性のある事態(状況)」を想い浮かべることによって、記憶が飛躍的に向上することを実験的に明らかにしたのである。

(中略)

さらに、の必然的な事態を自ら考案して補うようなトレーニングをすることによって、すぐに自分でも「必然性」をつくり出すようになり、それによって結果的には、記憶の再生が向上することも示している。(この場合のトレーニングは、「主語の入れ替え法」である。つまり、「この場合、どうして背の高い人でなければならないか。背の低い人ではダメであるという理由を考えよ」といった類のものである。)


社会科の教師として「歴史はどうすれば覚えるのか」いう悩みを常に感じます。

生徒は「何で歴史なんでムカシのことを暗記しないといけないのか」という不満抱きながら、でも覚えないとテストが・・・受検が・・・というあきらめの気持ちを持ちながら授業を受けているが見られます。


そのひとつの解答がこの文にあるのではないでしょうか。


たとえば「なぜ聖徳太子は17条の憲法の第1条に『和をもって貴しとす』にしたのか。」

→当時の豪族の権勢と天皇家の権威の争いが背景にある。


たとえば「なぜ北条政子の演説に鎌倉御家人は納得したのか。また西国の武士は上皇についたのか」

→御恩と奉公の関係は御家人に限られていたことや、承久の乱後の新補地頭による鎌倉幕府の全国支配


歴史上の出来事には「必然性」があります。その必然性に各時代の人がどのような思いで、その思いを形にしたのか。その「歴史の文化」にふれることが、生徒に「だからこうしたんだー」という納得をさせることができれば・・・


歴史のおもしろさ(実際に自分がはまったおもしろさ)に少しでも触れることができるのではと思います。