「学び」を問いつづけて―授業改革の原点/佐伯 胖
¥2,100
Amazon.co.jp


「1600年に徳川家康が石田三成を破った戦いをなんといいますか?」

「関ヶ原の戦い」


このように一問一答形式の問いが延々続く授業・・・これでは生徒は「文化」に触れ、楽しい思いはできません。

「クイズ」には強くなりますが、ただそれだけです。


P57 

本来の発問は、触発的な発問だと思う。答えをいわせる発問ではなく、教師の発問が刺激となって子供の探求がはじまる発問こそが真の発問である。それではこのような触発的な発問はいかなる時にいかなる形でなされるべきかを考えてみよう。


1 観点を変えるために発問

 子どもたちが固定観念にとらわれていることが理解を妨げる場合に、立場を変えて考え直させたり、機能や目的を問うてみたり、視点をどこかに定めさせたりするのである。


2 別の仮定を導入してみる発問

「もしもこの条件がなかったらどうする」とか「仮にこういう条件が付け加わったらどうだろうか」と問うてみるのである。このような全く別の仮定を設定してみたり、特定の仮定をのぞいて考えてみることは、自分で思いつくことが難しいことであり、先生が誘導しなければならないことが多いのである。


3 例を考え出させる発問

「たとえばどういう例があるか?」「これと似たような経験をしたことがある人?」「この条件を満たす例を作ってみよう」・・というような指示で、子どもたちが事例を探し出したり、作り出したりすることは、実感をともなう理解に不可欠であろう。


4 例を与えて考えさせる発問

「こういう場合はどうか考えてみよう」とか、この例では今の条件が当てはまるか考えよう」というように、わかりやすい典型例を持ち出してそれについて考えさせるのである。子どもたちに特定の次元(側面)を注目させたいときや、過度の一般化に対する反例を示したいときにこのような発問が効果的であろう。


5 単純化して考えさせる発問

 大きな数値を小さな数値に置き換えたり、あまり関係なさそうな特徴は考慮外におき、単純なモデルに置き換えて考えさせるのである。必要な側面だけを残して世界を縮小してみせるのである。これによって相互関係が見えてくることも多い。


6 矛盾を指摘する発問

 子どもたち自身の考え方に潜んでいる矛盾に気づかせ、何となく信じ込んでいたことに疑いを抱かせたりするのである。彼らが当然だと思っている規則や、原理をそのまますべてに当てはめてみたり、もっと当然だと思っている規則とつきあわせてみるのである。


7 「ほんとうにそうか?」と問う発問

 子どもが何気なく当たり前だと思っていっていることについて、あえて意識化させ、「ほんとうにそうか?」と問い直させる。今まで疑ってみたこともないことに疑いを持たせるのである。


8 少しずつ条件を変えて極限値まで変化させる発問

 物事の本質を見極めるために、特定の条件を少しずつ変化させてみることが役立つことがある。これは通常の条件ではどこが一番大切かよくわからぬが、極限まで変えてみるとわかる場合、また、通常の事態ではよくわかるがどの条件の変化が決定的か不明な場合などに適応する。


関ヶ原の戦いでは、たとえば家康に従った武将(福島政則や黒田長政)が、豊臣恩顧の武将であったことを示し、

なぜ、豊臣秀吉に恩があった武将が、家康に付き、豊臣方と戦ったのか?


このことを追求することで、たとえば石田三成との関係や、「家」をまもる意識など、より深く学べます。

そこで「文化」に触れ、なんで石田三成はそんなに嫌われたの?とか子ども自身に「?」が生まれやすくなるのではないでしょうか?

「問う子ども」にするか、「権威主義に従う考えない子ども」にするか。責任が重い仕事です。



「学び」を問いつづけて―授業改革の原点/佐伯 胖
¥2,100
Amazon.co.jp


「質問はありませんか?」

「・・・・・・」


授業でよく見る光景です。(大人の研修会でもみられますね)


質問はなかったはずなのに、受験が差し迫ってくると、「・・・はどういう意味ですか?」の質問攻撃が始まります。


p54

学問とは問うことの学習であるはずなので、問うということを忘れた学問は権威主義か、もしくは、ただひたすらにデータのみを集めていく“はいまわる実証主義”かのいずれかになってしまうだろう。


「権威主義」まさに今の教育界が陥っているワナだと思います。

原発の安全神話などは、まさに権威主義の被害の最たるものでしょう。

これからの日本人には「なぜだろう?」「ほんとにそうか?」ととう資質が、不可欠になるのではないでしょうか。


私は授業で「質問用紙」を配って、何でもいいから授業で疑問に思ったことを書きなさい、という実践を行っています。(実際には”しました”ですね・・・最近は受験対策ばかりでやっていません)


この質問用紙を使ってみると本当におもしろい質問がたくさんあります。

一例を挙げると

「なぜ産業革命はイギリスから始まったのか?」「関税ってなんですか?」など。


また、深く理解している生徒ほど、疑問が多くなるという傾向も見られます。


教科書を権威とし、権威主義の授業を行い、「正解」を求める生徒を育てる。

3.11後の日本、「~神話」にだまされない日本人を育成するためには、「問う」ことができる生徒をいかに増やすかが、勝負です。


中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史/與那覇 潤
¥1,575
Amazon.co.jp

高校入試シーズン真っ盛り。受験生は今が勝負の時です。がんばれ!

今年は3年生の担当ですので、過去問を研究しますが・・・

私が受験したときと、問題があまり変わっていないことに気がつきます。

私が受験したのは17年前・・・この間に指導要領が2回変わっているはずですが?


特に社会科では以前同様「暗記」が主流です。だから生徒も「社会科は暗記物」を思ってしまいます。

なぜ、問題があまり代わり映えしないか、その理由をずっと考えていましたが、その答えが見つかりました。


中国化する日本 與那覇 潤 p128

科挙制度と競争社会の導入


1997年から始まる高等文官任用試験(現在の国家公務員1種試験)のルーツは科挙にあると言われています。


今日の公務員について、「実際の仕事とは何の関係もない、やたらと範囲の広い教養科目ばかりが出題されて、ガリ勉丸暗記型の受験秀才ばかりが合格する。こんな連中がキャリアだなんだといって、本当の実務を担うノンキャリアよりも上位にふんぞり返っているから、日本の官僚はダメなんだ・・・」式の批判を耳にしたことのない人は、今やいないでしょう。


 そう、かような理不尽な採用試験も、もとが「科挙」なんだと思えばあたりまえ。1000年以上前に書かれたカビくさーい経書を丸々暗記する、無意味な教養試験、空虚な詰め込み教育を勝ち抜いてこっかのトップエリートと認められた空理空論だけは得意な人びとが、現実の業務は薄給で叩き上げのノンキャリアに丸投げして天下国家を語るのが宋朝以来の伝統ですから、今となっては手の施しようもありません。


日本の「試験」「入試」の多くは、この考え、つまり「科挙」の伝統に知らず知らずのうちに絡め取られているのではないでしょうか?


今となっては「ゆとり教育」は大失敗したといわれていますが、総合学習などで「思考力を深める」方向性は国際競争を意識しないといけない現代の状況を見ると、正しかったと思います。


しかし、中学生(今や小学生も)最大の関心事「受験」が、旧態依然とした「科挙」のままだったため、「ゆとり教育」はそれに対応できず「学力が低下」したと思われたのでは?と思います。私の時代の問題と、今の問題があまり変化していない原因は、これだと思います。


「科挙」に対応できるのが、「学力」?・・・何か違和感を感じますね。