私は「アヴェ・マリア」の曲が大好きで(その中でもカッチーニのアヴェ・マリアはお気に入り!)これまで結構いろいろ聴いてきたのですが、この舘野泉さんのバージョンはシンプルな音の中に深い祈りが感じられる超名演だと思います。

 そこはかとなく悲しみがたゆたい、夕暮れどきの寂しさにも似た色調が感じられる‥そんな種類の美しさがあります。

 ピアニストにとって、左手が不自由になるということはどういうことなのか‥。単純に考えれば「ピアニスト生命の終わり」と同義ではないかと思います。素人ならいざ知らず、プロのピアニストが両手でピアノを弾けないとしたら、音楽ができなくなるよねぇ‥有名どころのピアノ曲はほぼ全滅だもの‥とつい思ってしまいます。そして舘野さんご自身もその例外ではなかったようです。

 左手のみで弾く曲を他人から勧められたとき、「腕が曲がったって、絶対に左手だけの曲なんて弾くものか!」と思ったんだそうです。両手で弾けないピアノには意味がない‥という固定観念に捉われて、引退も真剣に考えた‥と。

 でもある日、息子さんが持ってきてくれた某作曲家の左手のための楽曲をピアノで弾いたとき、舘野さんの心に奇跡のような瞬間が訪れます。その感動的な一節を引用してみたいと思います。

 ”音にしてみると、大海原が目の前に現れた。氷河が溶けて動き出したような感じであった。左手だけの演奏であるが、そんなことは意識に上がらず、ただ生き返るようであった。手が伸びて楽器と触れ、世界と自分が一体となる。音が香り、咲き、漂い、爆(は)ぜ、大きく育ってひとつのまったき姿となって完成する。それまで、ピアニストとして戻れるのは右手が動くようになってからと思っていたが、音楽をするのに、手が一本も二本も関係はなかった。”(舘野泉著「ひまわりの海」より)

 …目が覚めるような生まれ変わりの表現ですね。一つの捉われから解放されるとき、多かれ少なかれ人間にはこのような体験と瞬間的な成長が生じるように思いますが、芸術家の手にかかるとこういう表現になるのですねぇ!何度読んでも感動する一節です。

 こうして舘野さんは「左手のピアニスト」として再起し、コンサート活動を再開させるに至りました。

 「音楽をするのに、手が一本も二本も関係ない」という舘野さんの演奏は、聴いている側にも同じ感覚を与えてくれます。演奏しているのは左手一本だなどと意識することもなく、ただただ美しい音楽に聞き惚れます。芸術表現というものは魂の表現なんだよなぁ‥としみじみ感じる瞬間です…。

                                    Buona Fortuna!

豊かな音楽の海へ! 
スクリャービン作曲『左手のための2つの小品より 夜想曲』 ピアノ:舘野泉

引用: 舘野泉著 『ひまわりの海』 求龍堂