旦那は日蓮宗のお寺の副住職さんに読経してもらって旅立ちました。
あの人はお経も読めんけど、熱心な日蓮宗の家に生まれ、とにかく日蓮宗で送り出されることが落ち着くようだったので。
本当は戒名も欲しそうなこと言ってたけど、「このへんの人たちは俗名で行く人が多いみたいよ」と言ったら、あんまり古臭い主張をさせないオーラを私が出してたのか「お前に任せるわ」と。
俗名で旅立ってもらいました。
戒名だと誰かわからんもん。
私は生家は浄土真宗。
嫁ぎ先は日蓮宗。
実家も新家ではあったけど、それなりにちゃんとご先祖を大切にして小さい頃から浄土真宗のお経を読まされ😅嫁いだ先も嫁たるもの日蓮宗のお経くらい読めるようにしろと言われ、法事ともなればどちらのお経も声高に読経する人です。。😅
嫁ぎ先は何代も続く旧家。目に見えないその重さが私には重圧であった。
結局関東圏に引っ越すことになり、重圧のモトを全部しまってきたのよね。
お墓。仏壇。
圧力として感じてしまっていたせいか、形あるものに縛られることが気持ちの負担だった。
終ってきたとはいえ、檀那寺ではないけれども日蓮宗のとても気の合うご住職のお寺に永代でご先祖をお預かりいただけたことで腑に落ちたから納得できてるんだと思う。
旦那は今、白木のお位牌に俗名が書いてある状態です。
四十九日法要は、通夜葬儀で読経していただいた、かつ、我が家の永代供養壁面墓のある日蓮宗のお寺で既に予約してあります。読経後、壁面墓に納骨をします。
白木のお位牌は本位牌にして、そこに旦那の魂を入れてもらって家にいる持ち帰って仏壇に納めるのが本筋らしいですね。
「本位牌は作らないといけないんですか❓」と、お通夜の読経のために来てくださった初対面の副住職さんにお聞きしました。
「仏教的には本位牌に故人の魂を入れて家でお守りするということになるんですよ」とのお返事。
「私は愛知で旧家を終ってきたんです。本位牌を置くなら月命日ごとにご住職に読経してもらうとかしないときちんとお守りしてるとは言えないと思う。でももう檀那寺を持つ気はないんですよね」と。
「毎月の月命日の読経はなくても、家族が手を合わせるだけで供養になりますよ」と副住職。
「それは写真とかではダメなのですか❓本位牌でないとダメなんでしょうか❓故人を想う気持ちがあれば良いってわけじゃ無いんでしょうかねえ」とまた質問する私😅
「仏教としては本位牌を、と言いますが、私一個人としては想う気持ちがあれな対象物が位牌ではなくても良いと思いますよ。」と副住職。若い方で柔軟にお返事いただいたけど、これが年配の方だったらこんな柔軟じゃなかったのかもね。。😅
こんな話をお通夜前の初対面のご挨拶の時にした私。隣で息子②が聞いてました😂
四十九日以降は、お焚き上げしてもらって本位牌は作らないでいこうと今は思ってます。
写真でいいかなーって。
葬儀で使った大きな写真じゃなくて、小さい写真でいい。
そして命日に、「お父さんを想う会」ってのを開くの。
2月29日、4年に一度しか来ないから、2月28日になるかな。
家族で集まってご飯食べて「お父さんってこんな人だったよね」みたいな話をしながらみんなでワイワイ話す。
結局、無宗教ってのになるんかな。
墓じまい、仏壇じまいしてきたからこそ、位牌やお墓など、物を残さないことを考えちゃいます。
旦那と私が入る永代供養の壁面墓も、最後の人がお墓に入って13年経ったら合祀墓に自動的に移動されるしね。
無宗教っていうポジションに自分を置いたことは無い。
でも生まれ落ちた家の宗教と、嫁いだ先の宗教を自動的に受け継いできただけ。
深い信仰があったわけじゃない。
これからは多分、無宗教だ。
信仰だけじゃなく、自分の選択で生きていけるポジションじゃん⁉️
でもね、自由ってちょっと勇気もいるよね。慣例に習うほうが楽ってことは確かにある。