訪問中の最後の話です。

主題は覚えていませんがフイリピ4:4~7に基づく話だったと思います。

 

     どういう内容だったかと言いますと.。

 「様々な悩みを抱えていたとしても、喜びを保つための四っのことをを行うことができる。一つは道理をわきまえていること、二つ目は思い煩いをなくすこと、次いで、祈りの生活を送ること、最後に平和を保つことを行っていくなら神からの平安を得て歩むことが出来る。」みたいな話だったと思います。

 

 昔から良く話されている、忍耐や辛抱、忠節や信仰を保つ的な話で、成員の皆さんはそれなりに励みを受けたらしくて、終わった後は長い列を作っておりました。

 

     しかし、わたくしとしては「聖書」の全体を知ってしまった今、最早どんな立派な話しをしたとしても、また、どんなに素晴らしい話だったとしても、まるで虚しい、空を打つ話にしか聞こえませんでした。

 

     昔だったら、おそらく自分も同じような話をして来たと思うのですが。今ではまるで違った角度でものを見ているせいでしょうか、そのような話に何も心が動かされないのです。

 むしろ逆に、「これは違いますは。皆さんは良くこんな話に騙されてしまいますね、もっと冷静に聖書を見てくださいよ。」と、心のなかで叫んでいるのです。

 

 みんなと同じように、神の言葉を開いているのに、全く醒めた態度て聞いている自分がそこにいるというのは、極めて、奇異な感じがします。

 

     自分が、霊的に病んでいるからですか?、いいえ、そうではないと思います。

 

  実は、「聖書」に則って話していないからだと思います。

 でも、「聖句」はその通りに、また、励みとなるように上手に使っていますよ。

 たしかに、「聖句」はその通りなんですが、位置的背景が違うんです。

 どういうことかといいますと。

 

  話し手は「聖句」を、今の私たちに直接関わるものとして、また、「神」からの私たちに対する直接の助言の言葉としてそのまま当てはめようとします。

それが根本的に違うことだと思います。

 (実際のところ、「組織」の提供する話はみんなそればっかりなんですが・・・・・。)

 

 私たちはパウロが書いたフィリピの兄弟たちと訳が違います。同じ状況や同じ立場に置かれている人間ではありません。毎日の生活の中で、ローマの支配下に置かれながらも、死や投獄の危険を意識しながらも、クリスチャンとしての賞である天への召しを得ようと懸命に走らなければならない彼らとは立場が全然違います。

 そもそも、救いの目標が根本から違っております。

 

     そのような訳で、「組織」の教えや話には無理があります。

こんな事、一体何時まで続くのでしょうか。

 

 

     もし、今の私がこうした話をするとすれば(そんなことは絶対に無いことですが)全く違った話になっていたと思います。

 

 日常の生活の中で喜びが失うことが多いとしても、どうしたら気落ちせずに心の中での喜びを保ち続けることが出来るでしょうか。

 パウロがフイリピの兄弟たちを強めた仕方に注目してみましょう。

その中で主にあって喜びなさいと繰り返しました。彼らが喜びを失う理由には幾つかありました、偽兄弟たちの圧力、ローマの支配における数々の制約。そうしたなかにあっても、自分たちの報いは天にあることをしっかり思いに描くことによって地的、人間的なものからくる攻撃によって思いをそらされたり、喜びが失ったりすることが無いよう、主からの報いに焦点を当てるよう励ましました。主は近いと述べて、彼らを強めたのです。

 

 このことは今の私たちにも有益です。私たちの希望は天に行くことではありませんが、彼らと同様、イエス・キリストに対する信仰によって永遠の命と罪からの解放という、人類に対する神からのすばらしい賜物が待ち受けていることに希望を置いています。

 その希望は死を必要以上に怖れる人間の最大の恐れから私たちを解放してくれます。

 

 こうした希望が、フイリピの兄弟たちの、信仰による戦いによってもたらされたものであるなら、私たちもその信仰に習いたいとの、正しい動機付けを得るのではないでしょうか。

 そうした、健全な思いは、社会に対しても道理をわきまえた者としての生き方を明らかに示すこととなり、不必要な摩擦や問題を避ける助けともなるでしょう・・・・・・・。

 

     如何でしょうか、「聖書」が私たちに教えようとしていることは、これほど道理にかない、私たちの信仰を強めるもののはずなんです。