「ものみの塔」は、「聖句」の断片、もしくは1節だけを捉えて話しを膨らませるのが好きです。

 イエスが語った言葉、パウロが言わんとしている論議のほんの一部分の言葉を捉えて何かのテーマや主題の論議の根拠とします。

 そんなことを100年も繰り返して来ますと。誰でも、達人の域に達します。

 

     そんな例の1つか2つを取り上げてみたいと思います。(実際にはあまりに多すぎて書ききれません)

 

その1:ヘブライ3:4.。

 「・・・言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。」

 

 JWは、この聖句を研究生の時から頭に叩き込まされているので、「神」が全能者で、創造者であることの証しの根拠として直ぐに頭に浮かぶ言葉の一つのはずです。

 

     でも、文脈はどうでしょう。パウロは創造者に焦点を当ててはいませんでした。

 

 パウロは、ヘブライのクリスチャンたちにモーセより偉大な大祭司イエスに注目することの大切さを論理だって訴えておりました。その論議の展開の中に登場するのがこの言葉です。・・・・パウロはこう続けます。

 ・・・・・神の家の中でモーセが主要な方(実はモーセは神の家の家令)であった訳ですから、そうであれば、イエスはモーセよりもっと栄光を受けるに値する方であると述べて、実際こうした(神の家の)取り決めを設けられたのは神なのですから、家を作られた神の取り決めに服するのは良いことであると、上記の聖句に繋がっているのです。

 

 それで、イエスに、はばかりの無い言葉と希望をしっかりと保ちましょう。(3:6)と論議を進めております。

 

     この「聖句」を、単に、「神はすべての創造者なのです。」と解説するのと。「モーセと比較する神の家の中でのイエスの栄光を受けた立場に注意を向け、その取り決めを設けたのはすべて神なのですからそれに服する務めがある。」と解説するのとでは月とすっぽんほどの違いがあると思いませんか。

 

 「組織」が、如何に文脈を無視した解釈を読者に押し付けてきたのかがお分かりいただけると思います。

 

 

 その2:マタイ7:12.です。

 

 「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです。」

 

 この「聖句」も、どれほど「JW」の出版物を賑わしてきたことでしょうか。

自己犠牲の利他的な精神。愛の示し方、表わす方法、云々・・・・・・。

 

     さて、文脈から見る正しい意味はどのようなものですか?。

 

 イエスが語った、王国と神の義をいつも第一に求める7章の中に登場する言葉です。

 求め続けること、たたき続けること、そうすれば与えられる神の寛大さに注意を向けております。 

そして12節の上記の言葉になる訳ですが、その最初の言葉に注目してみてください。「それゆえ・・・」となっております。従ってこの節は、前の節と一続きに繋がっている言葉であることがわかります。

 

 では、前の節を引用してみましょう。

11 それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです。

 

     天の父が、求める者に寛大に与えて下さる事の保障の言葉とも言えます。

この事を前提にして12節を読み取りますと。

 

 「神は求める者に必要なものを必ず与えてくださるのですから、あなた方も他の人に寛大に接するべきであり、神はそのような人に豊かに報いてくださるでしょう。実際、律法はその精神を伝え、預言者たちはそのことを証ししてきたのです。」

 

     実は、自己犠牲の精神は神に仕えるという前提に成り立っているのであって、神による報い、永遠の命、神からの祝福の保障があって初めて成り立つものです。従って、罪のうちに生まれた人類にとってはそれは最低限の保障であり、当時、罪の下にある他の人類はまだイエスキリストの贖いの価値は適用されておりません。

 となると、この時代に文字通りの自己犠牲を示すことを当てはめなければならない人々と言えば、それは、イエス・キリストと結ばれた144、000人。天の王国を目指す成員だけに限定される言葉と言えるのです。

 

 

     このように文脈を通して調べていきますと「ものみの塔」が当然のように解釈している「聖句」も、実は全然適用が違っていたり、意味が間違っていたりすることが多いのです。

 これは、ほんの一部を取り上げただけなのですが、最近の記事の一つ一つを取り上げて言ったならおそらく毎週の「研究記事」と同じボリュームなることは請け合いです。

 

     このような実情で「神の組織」だとか、神の認める「唯一の経路」だとかを豪語するとははなはだ、おぞましい姿といえます。

 

 それで、心ある人は是非とも文脈を通して、文脈の中から「聖書」を読み通すことをお勧めしたいと思います。